プロローグ
夜の教室に、一成が立っている。襟足まで伸びたあざやかな金髪に、大きな緑色の目。校章の入った半袖ワイシャツにスラックスという制服姿。机と椅子が整然と並ぶ中で、ぼんやり遠くを見ている。その様子を、窓の近くに立つ外灯が照らしていた。
天馬は確かに一成がいることにほっとしながら、素早く校舎に近づいた。去年までは使われていたという旧校舎は、現在立ち入り禁止だ。誰かに見られないよう、気をつけながら窓を開ける。一成がはっと顔を上げると、窓に近づいてきた。
「テンテン!」
ぱあっと顔を輝かせて、一成が声を上げる。窓を全開にすると、外に立つ天馬に向かって「いらっしゃい」とにこにこ笑う。天馬は「ああ」とうなずいた。
旧校舎は鉄筋コンクリート造りで、基礎もしっかりしている。一階とはいえ、地面とは多少の落差があるので天馬を見下ろすような形になる。天馬はその顔をまじまじ見つめた。
外灯があるものの、教室の隅々まで照らすには心もとない。無言でたたずんでいた一成は、暗闇に染まるようだった。しかし、窓を開けた一成の表情は晴れ晴れと明るい。まるで、ここだけ太陽が昇ったみたいだ、と天馬は思う。
しみじみしながら、天馬は使われていない花壇を踏み台代わりにして、教室に入る。一成は白い歯をこぼして天馬を迎え入れた。
「今日も来てくれて嬉しいよん。バレなかった?」
夜の中にあっても確かな輝きを放つような、まぶしい笑顔。どれほど天馬の来訪に心を弾ませているのかが手に取るようにわかって、天馬は何とも言えない気持ちになる。
ただ、無言で見つめていれば一成が戸惑うのもわかっていた。天馬は一つ深呼吸をすると、ゆっくり答える。
「ああ、大丈夫だ。寮抜け出すのも上手くなったからな」
「テンテンってば不良~」
茶化すような物言いに、天馬は肩をすくめた。
天馬は高校に併設された寮に入っている。門限は守っているものの、部屋が一階であることを幸いと玄関を使わず窓から出入りしているし、夜間外出時は行き先を告げるという規則も守っていない。もしも露見したら厳重注意が待っていることは確実だった。
「仕方ないだろ。一成に会うにはこうするしか――」
途中まで言ったところで、天馬はとっさに身をかがめた。教室と並行に伸びる通路を、誰かが通ったのだ。
旧校舎と寮の距離はおおむね二百メートルほどある。その間には本校舎と寮を行き来する道が通っているので、部活帰りの寮生や用事のある教師が利用しているのだ。旧校舎を何の気なしに眺めれば、立ったままの天馬の姿を目撃される恐れはある。ただ、教室の窓は腰の高さほどで、床に座ればちょうど壁の部分が天馬の姿を隠してくれる。
「もう行ったみたいだよん」
窓の外を確認していた一成が、しゃがみこんだ天馬に向かって告げる。天馬はほっと息を吐いて、そのまま床に腰を下ろした。一成は面白そうな表情で天馬の隣に座ると、「どっちかっていうと、こっちの方が不良って感じ?」と楽しそうに尋ねた。
「まあ、そうだな。一応立ち入り禁止だからな、ここ」
旧校舎は現在使われておらず、玄関は施錠されている。窓から勝手に出入りしているなんて、言語道断だ。それこそ反省文だけでは済まず、外出禁止令くらいは出されるかもしれない。
「その点は便利だよね、オレ。テンテン以外に見えないし!」
あっけらかんとした顔で告げられる言葉。冗談めいて発せられているけれど、これが嘘偽りない事実であることを天馬は知っている。一成の姿は天馬以外に見えない。誰も一成の存在を認識できないことは、とっくに確認済みだ。
「こんなにはっきり見えるのにな。触れないから信じたが、そうじゃなかったら怪しいやつだと思って全力で逃げてたぞ」
「え~、こんな無害で真面目なのに!?」
軽口を言い合いながら、一成が天馬に向かって手のひらを差し出した。ハイタッチでも求めるような仕草に、天馬は手を持ち上げる。
手のひらを合わせるけれど、一成の手は天馬の手をするりと通り抜けるだけだ。確かにここにいるのに、触れ合おうとすればまるでホログラムのように一成の体は消えてしまう。
「いつ見ても不思議だよね」
「手品でも見てる気になる。それに、触れないのに物を持ったりはできるのは不思議だよな」
「床もすり抜けないし、幽霊の仕組み謎すぎ」
触れ合うことはできないものの、一成は今もこうして床に座っているし、物を触って動かすことはできるのだ。施錠された窓の鍵を開けたのも一成だし、一見すればまるで普通の人間のようにふるまえる。しかし、触れ合うことはできないし、天馬以外の人間は一成を認識しない。その事実は、一成が人間ではないのだという事実をどうしようもなく知らしめる。
「でも、テンテンがちゃんとオレのこと見えててよかった。テンテンだけは、オレのこと見つけてくれる」
そっと笑みを浮かべた一成は、やわらかなまなざしで天馬を見つめる。外の明かりに照らされる表情は、不思議な陰影を描いていた。心からの喜びをたたえながら、同時にどうしようもない悲哀を混ぜたような。そんな表情を、天馬もじっと見つめ返す。
誰も一成のことが見えない。声も聞こえないし、一成がここにいることを知っているのは天馬だけだ。天馬がいなければ一成はひとりでここにいるしかない。
「――まあ、オレだって似たようなものだぞ。一成以外に話す相手とかほとんどいないしな」
お前は一人じゃないんだ、と言いたくて天馬はそう返した。天馬には親しく話す相手がいないのは事実だし、嘘ではなかった。一成はその言葉に少しだけ沈黙を流したあと、「そっか」とやわらかくうなずく。それから、ぱっと明るい笑みを浮かべて言った。
「それじゃ、似た者同士で今日は何しよっか。絵しりとり再チャレンジする?」
「今日こそは一成には負けないからな」
つい先日も夜通し二人で過ごした時間を思い出す。一成は「絵を描くことが好きだった気がする」と言っていて、天馬はスケッチブックや画材を買ってきた。やたらと上手い絵に感心しながら、二人で夜通しスケッチブックに向かい合っていたのだ。
どんなたいそうな出来事もなくてよかった。誰も使うことのない旧校舎で、ささやかな話をしているだけでも充分だった。他の誰も必要ない。二人だけの夜は、ただそれだけできらきらと輝いている。