「スプリング・ソーイング」瑠璃川幸:天鵞絨駅ホーム(20代・会社員)
春らしい陽気に、新年度のあわただしさを乗り越えた解放感。久々にお洒落して出掛けたくなって、クローゼットの奥からワンピースを引っ張り出してきた。
やわらかめのシフォン素材で、落ち着いた色合いの花柄。スカート丈も短すぎず、全体的に上品な雰囲気のあるワンピースだ。買ったのは結構前。新卒で今の会社に入って、しばらくしてからのことだと思う。その時の給料にしては、ずいぶん奮発した代物だった。
ただ、当時の年齢的にはちょっと年上すぎるかも……ということで、あまり着てこなかった。値段が値段だったし、そもそもマメにクローゼットを整理する性格じゃないから、ずっと肥やしにし続けて、ときどき眺めてはいた。もうちょっと年齢が上になったら……とは思っていて、今なら行けるのでは?と着てみたら予想通りだった。
ここ最近の土日は、死んだように眠っているだけだった。ほぼノーメイク、動きやすいジャージとかTシャツが標準装備。楽ではあるけど、絶対人に会いたくない格好だ。実際、ちょっとコンビニ行く以外はずっと部屋に引きこもってたし。
そういう時間も必要だし、おかげでずいぶん気力も回復したと思う。だけど、やっぱり今日みたいな日もあると嬉しい。
がっつりフルメイクしてお洒落してるとテンションも上がるし、浮かれた気持ちで電車に乗った。目的地は天鵞絨町。距離的にもちょうどいいし、買い物以外にも何かしたかったのだ。適当に劇場へ入るのもありだし、ストリートACTを冷やかすのもいいかもしれない。
なんてことを思って、駅に降り立った。まずは何か食べようか、と思いながら腕時計を確認した時だ。袖口のボタンが取れかかっていることに気づいた。
思わず足を止めた。デザイン性のあるおしゃれなボタンは、紐の端っこにぎりぎりつながっているだけで、むしろここまでの間によく取れなかったなと思う。電車に乗ってる間、袖なんて見てなかったから気づかなかった。
長い間しまいっぱなしにしてたのがよくなかったのかもしれない。というか、取れかけのボタンのまま電車に乗ってたのかと思うと恥ずかしい。浮き浮きした気持ちが一瞬でしぼんでいく。こういう場合、応急処置ってどうしたらいいんだろう。ソーイングセットなんて持ってないし……。
どうしよう、とたたずんでいると、後ろから人が来る気配がしてとっさに左へ避けた。それが決定打だったらしい。かろうじてついていたボタンが、袖から離れる。
あっ、と短く声が出る。ボタンは地面に落ちて跳ねて転がり、線路とは逆方向のホーム端まで行ってしまった。線路の方へ転がっていかなかったのはラッキーだったけど。
小さいものだからうっかり見失わないよう、注視したまま行き交う人の間を抜けた。ボタンを拾わなくちゃ、ということで頭がいっぱいだった。だから、ボタンの近くに人がいることには全然気づかなかったし、完全に予想外だった。
「これ、アンタの?」
細長い指先が先にボタンを拾い上げた上、そんなことを言われるなんて。
え、と思って視線を上げると、整った顔立ちの――男の子?女の子?が立っていた。ショートボブの緑色の髪はつやつやで、ぱっちりした大きな目はアプリコットのジャムみたいな色。かわいらしさと凛とした空気が同居していて、お人形みたいだった。
「違うの?」
「え、ああ、違わないです!」
怪訝な顔で言われて、力強く答えた。お人形さんみたいな子は、ちらりとこっちに視線を向けて「そのワンピース」と言う。
「結構前の限定品だよね。オレもチェックしてたけど、あの時は手が出なかった」
後半は独り言みたいだった。オレ、という言葉と目の前の子が着ている制服から、どうやら男の子らしいと察する。デザイン性のある藤色のブレザーとズボンは、聖フローラ高校の男子制服だった気がする。最近は男女兼用もあるから、いまいち確信が持てないけどたぶん。
男の子は、ワンピースのブランド名も把握しているらしく、限定品の販売年や何なら今の展開にも詳しかった。ファッション意識が高い。
「ボタンもちゃんと限定品仕様なんだし、落としたらもったいないでしょ」
そう言って、拾ったボタンを渡してくれた。どうやら、ボタンまで含めたトータルデザインがされたワンピースだったらしい。知らなかった、と思いつつ、「ありがとうございます」と受け取った。そう言われると、確かになくすわけにはいかない気がするし、気づけばなかった、ということにならなかったのはラッキーだったんだと思う。ただ、問題はソーイングセットとか持ってないし、そもそも裁縫技術が心もとなさすぎて、現状このボタンを縫いつけられない、ということだ。
どうしよう。ひょひょろ糸が出てるままなのも格好悪いし、せめて糸だけでも切りたい。ボタンはあとで、どこかに頼むとして……待ってどういう店なんだろう。調べたら出てくるだろうけど、今まで意識したことないから近くにあるのかどうかすら見当がつかない。
そんなことをぐるぐる考えて、立ち尽くしていた。男の子は、用も済んだしこのまま立ち去るだろうと思ったんだけど。何だか怪訝な――というより、若干厳しい雰囲気で口を開いた。
「ソーイングセットとか持ってないの?」
「ええ、まあ……常備はしてないですね……」
それくらい持っていて当たり前なのに、という空気感だったので、叱られているような気持ちで答える。ファッション意識が高い男の子だし、たぶんボタンなんてすぐに縫い付けるのが常識なんだろう。ボタンを受け取って、立ち尽くすなんて選択肢はきっとない。
男の子は数秒黙ってから、「なら、貸してあげる。そのままじゃみっともないでしょ」と言って、鞄を開いた。思わず目を瞬かせる。やっぱり持ってるんだ、しかも貸してくれるんだ、やさしいな、という感情ともう一つ。
「気持ちはありがたいんですけど! あの、その、正直ボタン付けられる自信がないから大丈夫です!」
貸してくれる気持ちは嬉しい。助けになりたいと思ってくれたんだろうし、実際助かるはずだ。ただ、それはソーイングセットをちゃんと扱える技量の持ち主だった場合に限る。貸してもらったところで、ちゃんと縫えると思えないので、有効活用できる気がしない。
なので勢い込んで、慌てて言った。無駄な労力を掛けさせるわけには、という強迫観念めいた気持ちだった。男の子は驚いたように目を瞬かせたあと、黙った。何かを考え込むみたいな雰囲気。もしかして気を悪くさせてしまったかも。冷や冷やしていたら、男の子は何かを決心したような顔で、予想外の言葉を告げた。
「もしアンタが嫌じゃなかったら、オレがボタン付けるけど」
ソーイングセットを貸すだけじゃなくて、付けてくれる? この子めちゃくちゃいい子だけど天使? という意味で固まっていると、どうやら別の意味だと受け取ったらしい。
「オレの腕が信用できないのはわかる。でも一応、販売とかもしてるし劇団で衣装も作ってるって実績はあるよ。作ったものなら写真もあるし――ああ、これオレが作ったポーチ」
言いながら小さいポーチを鞄から取り出して渡してくれた。カラフルだけど派手すぎない、センスのいいポーチ。デザインはもちろん、裁縫技術という意味でも市販品にしか見えなかった。というかまあ、わざわざこんなこと言うくらいだから、腕前はしっかりしてるだろうし、正直自分でやるのに比べれば誰でもマシだとは思う。
でも、そんなことしてもらっていいのかな、と思って素直に聞いてみた。そしたら、男の子は晴れ晴れとした顔で答える。
「そのワンピースの縫製、近くで確かめてみたいんだよね」
どうやら男の子にとっても利のある取引らしいと察したので。「よろしくお願いします」と頭を下げた。