おやすみナイチンゲール 08話




 目が覚めた瞬間、体中が震えていた。
 寒さのせいではない。一成は布団の中でぎゅっと体を抱きしめるけれど、震えは一向に収まらなかった。
 心臓がドクドクと音を立てていて鼓膜に響く。息が上手くできない。布団の中で一成はただ混乱していた。
 オレは死んだ。あれはオレが死ぬ瞬間だ。何度も何度も、ナイフで背中を刺された。暗い夜の公園で。耳鳴りみたいな木の音が響いていた。オレは死んだ。殺された。
 体の震えが止まらなかった。歯の根が合わない。吐き気なのか、嗚咽なのか、口から漏れ出しそうになって、一成は自分の口を手のひらで押さえた。
 気づかれてはいけない。椋を起こしてはいけない。それだけが一成のはっきりとした意志だった。
 押し殺した声は、手のひらにどうにか吸い込まれる。しかし、混乱は収まらない。
 殺された。死んだ。オレは死んだ。ここに動いている心臓も、呼吸も、何もかもがあの瞬間に奪われた。
 くぐもった声が指の隙間からこぼれ落ちる。ナイフが迫る。深い一撃。灼熱と痛み。視界がにじんだ。震えが収まらない。殺された瞬間が、痛みが、繰り返し頭の中に映し出される。
 悲鳴を殺しながら、一成はどうにか呼吸を繰り返す。
 意識しなければ、息の仕方を忘れてしまいそうだった。覆った手のひらに熱い吐息が漏れる。息を、しなくては。吐いて、吸って、吐いて、吸う。いつもなら難なくできる動作が、今はひどく難しい。

 それでも、手のひらに感じる呼気は、わずかに一成に落ち着きを取り戻させた。
 確かな熱を感じる呼吸は、一成が今ここに生きていることを強く意識させたからだ。心臓が動いている。息をしている。自分は今、ここに生きている。
 何度も呼吸を確認するにつれ、震えはどうにか収まっていた。
 一成は口を覆っていた手のひらをそっと外した。心臓は未だに早鐘を打ち、胸を突き破りそうに動いている。しかし、最初の混乱はわずかに波が引いたようだった。
 深呼吸を繰り返せば、酸素がきちんと体中を巡っていることを感じる。息ができることを確認して、こわばりが溶ける。
 一成はそろそろと手を動かして、己の左脇腹に触れた。
 服の下には、ひきつれたような傷跡がある。あの日路地裏で刺された時にできた傷跡だ。もちろん開いてはいないし、傷跡は残るもののちゃんと治っている。
 脇腹に触れた手を、一成はそっと背中に回した。
 夢の中で何度も刺された。馬乗りになった警官は、動けない一成の背中に向かって何度もナイフを振り下ろしたのだ。
 ぐっと唇を噛み締めながら、自身の背中に触れる。
 具体的に刺された場所がどこかはわからない。だけれど、指先で辿る範囲に傷跡は一つもなかった。指先は引っかかることもなく、背中はなめらかなままだ。それを確認した一成は、大きく息を吐き出した。

(――夢だ)

 実際に傷のついてない体を確認して、ようやくそう思った。
 たった今見たものは、あまりにもあざやかな光景は、みんなただの夢だ。ここは202号室で、オレは死んでなんかいない。ここは夜の公園じゃないし、オレは殺されてなんかいない。
 現実の光景ではないのだと一成は自分に言い聞かせる。
 それは確かに混乱を静める役目を果たしていた。だけれど同時に悟ってもいた。あれはきっと夢だ。現実じゃない。だけれど、どうしたって怖くてたまらない。

 一成はそっと体を起こして、ベッドの上で膝を抱える。
 体の震えは収まった。混乱も落ち着いて、さっき見たものは夢だと思える。現実じゃない。
 だけれど、自分が殺される瞬間の夢はあまりにも強烈で、一成の心に暗い影を落とした。
 思い出すだけで、ぞくりと背筋に悪寒が走る。また同じ夢を見たら、と思うと再び眠ることなんてできそうになかった。

 布団を肩から掛けて、膝を抱えて丸くなる。自分をぎゅっと抱きしめる。
 どうしたらいいのかわからない。眠りたくない。またあの夢を見たらと思うと眠るのが怖い。どうしよう。夢を見ない方法なんてわからない。
 くたくたになって眠ったはずだった。夢を見なくて済むように祈ったはずだった。それでも夢を見る。己の意志など無関係に、まざまざとあざやかに夢は一成を蝕んだ。
 膝ごと自分を抱きしめて、一成は薄暗い部屋を見つめている。まぶたを閉じたら、再びあの夢が映し出されるような気がした。
 時計の秒針が時間を刻む音が聞こえる。椋の寝息が耳に届く。ガタガタと窓が鳴るのは風のせいだろうか。一成は微動だにしないまま、ただじっと暗い夜に身を浸しているしかできない。

 一体どうしたらいいのか、一成にはわからない。身動きも取れず、ただあの夢に捕まらないことを祈っている。
 暗闇の中に独りぼっちで放り出されたようだった。行き先もわからず、安心できる場所もない。それなのに、暗がりの中にはひどく恐ろしいものが身を潜めていることだけはわかっている。
 視界がにじんで、一成は目をこすった。
 心細くてたまらない。泣き喚いてしまいたい。
 怖い夢を見るから眠れない、なんて言ったら夏組のみんなはきっと心配してくれる。馬鹿になんかしないで、どうしたらいいかきっと一緒になって考えてくれる。
 夢の内容を聞いて心から痛ましい顔をしてくれる。まるで自分が一緒に傷ついたみたいな、そんな顔をしてくれるのだ。
 わかっているから、一成はそれを選びたくなかった。
 一成は、夏組の彼らが負った深い傷を知っている。だって確かな現実として、一度一成は死んでいる。天馬も幸も椋も三角も九門も、一成が死んだ過去を生きていた。
 その事実はあまりにも大きな傷となって、今でもまだ残っているはずだ。今ここに一成が生きていることを理解しても、恐らく完全に傷跡がなくなることはない。
 だから、そんな彼らに一成が死んだ夢の話なんかしたくなかった。ボロボロに傷つけられて、深い痛みを知っているみんなに、また同じ顔をさせたくない。
 一成の夢の話をしたら一緒になって心配して、きっと同じくらいに傷ついてしまうから。
 膝を抱えた一成は、ぎゅっと自分を抱きしめる。傷つけたくない。悲しい顔をさせたくない。そのためなら、自分一人で耐えればいい。
 今日の夜は長くても、朝になったらきっとまた同じように笑えるから。それまでは、この夜を耐えるのだ。薄闇の中で、一成がひっそりと決意を固めようとした時だった。

 向かいのベッドで眠る椋が、身じろぎをした。びくり、と反応した一成は思わず椋の様子を見つめる。
 起こしてしまっただろうか。椋は基本的に寝つきがいいし、夜中に目を覚ますことはほとんどないはずだ。
 ただ、何かの弾みに眠りから浮上することが絶対にないわけではない。一成がごそごそと動いているから、目を覚ましてしまったのかもしれない。
 息を詰めて、一成は椋の様子を探る。しかし、椋は目を開けることもなければ起き上がることもなかった。
 ころりと寝返りを打ってから、もぞもぞと布団の中で位置を定めたかと思うと、やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら、純粋に寝返りを打っただけだと察して、一成は息を吐いた。

(――むっくん、よく寝てるな)

 ベッドで眠る椋の様子を見つめていた一成は、胸中でそっとつぶやく。穏やかにすやすやと眠る様子は安らかで、見ていると何だか安心してしまうような寝顔だった。
 ふわり、と温かな気持ちが胸に広がるのは、日中の椋を思い出したからだろうか。
 元々椋は一成のことをとても大事にしてくれる。ルームメイトとして202号室で過ごす日々はどれもが大切な思い出で、笑顔であふれる毎日だ。カズくん、とやさしく笑いかける顔を知っている。
 そして、椋は事件以降、以前に輪をかけて一成を大事にしてくれる。
 それは夏組全員に言えることではあるけれど、椋は特に一成に対してその傾向が強い。恐らく天馬が一番ハッキリと態度が変化しているのでわかりやすいだけで、椋も彼なりに確かな決意を抱えている。
 椋の寝顔を見つめる一成は、自然と夏組の姿を思い浮かべていた。
 いつだって一緒にいようとしてくれるのは、一成がこれ以上傷つけられることがないようにと願っているからだ。
 理不尽な暴力によって命を奪われた一成が、これ以上辛い目にも苦しい目にも遭わないようにと守っていこうとしているからだ。

(オレたちにお前を守らせてくれ)

 耳によみがえる声があった。
 奇跡みたいな出来事が起きて、未来の夏組と電話がつながった。その中で、天馬は言っていた。
 未来からできることはほとんどない。直接過去の一成と顔を合わせることも走っていくこともできないから、それも当然だ。だけれど、心からの願いを懸けてくれていたことを知っている。
 守りたい。一成を死なせたくない。どうかオレたち夏組に、お前のことを守らせてくれ、と告げる天馬の声を一成は覚えていた。
 椋の寝顔を見つめる一成は、いくつもの光景を思い出す。
 天馬の別荘に駆けつけて、夏組みんなで過ごした時間。誰一人欠けることなく、6人がそろっていた。待ち望んでいた時間がようやく戻ってきた、あの瞬間。
 夏組は、天馬と一成を二人きりにしてくれた。あの時、天馬は真っ直ぐと一成を見つめて思いを告げてくれた。
 一成のことが好きなのだと、自分の特別は一成たった一人だと。心を全部取り出して告げてくれた言葉を、一成は覚えている。

(お前が困ってるなら、ピンチなら、一番に助けに走るのはオレがいい)

 守りたい。あげられるものなら、何だってやりたい。大切だ。大事にしたい。まるで誓いを懸ける真摯さで、全ての情熱を傾けて告げられた。
 あの全てを、一成は何一つ忘れてなんかいなかった。ここにはいない天馬の声が耳に聞こえるようで、膝を抱えていた腕から力が抜けた。

 守りたい、と天馬は言う。それはきっと、夏組全員変わらない気持ちだ。今日までの日々が、これでもかというほど告げている。
 いつだって一成のそばにいて、傷つかないようにと心を砕く。直接声にならなくても、その行動が何よりも雄弁に語っていた。
 守りたい。傷つけるもの全てから、心を曇らせるものから、何もかもから守りたいと願っていてくれる。

 一成はぎゅっと唇を結んだ。しかし、それは何かを耐えるためのものではなかった。
 夏組全員の願いを知っている、と思ったのだ。
 一成が夢の話をしたら、傷ついた顔をするだろう。一成の痛みや恐怖を自分のことのように感じ取って辛そうな表情を浮かべるのだ。
 そんな顔をさせたくなかった。だからこのまま黙っていようと思った。それが正解だと思っていた。

 だけれど、守りたいと言う夏組と天馬を、一成は知っている。それがどれだけ心の底から紡がれた祈りなのか、夏組にとっての切実な願いなのかを知っている。

 今までの日々。告げられた言葉。
 思い出す一成の頭には、一つの選択肢が浮かんでいた。恐らく最初からわかっていたのだ。だけれど、それを選ぶのはひどく傲慢な行為のように思えて、選択肢から消してしまった。
 だって、同じように傷つくことがわかっているのに、それでも黙ったままでいることを選ばないなんて。自分と同じように苦しんでくれと言っているのと同じじゃないか。何も知らない顔で、明日の朝にはいつもの笑顔で振る舞えばいいはずだ。
 わかっていたのに、同時に一成は理解してしまった。
 夏組の願いを、天馬の決意を知っているのだと、はっきりと自覚してしまった。それは同時に、たった一つの事実を一成に突きつける。
 今ここで、一人膝を抱えて、暗い夜を耐え忍ぶことは、みんなの願いをなかったことにするのと同じなのだと。
 誰にも見せずにたった一人で傷つくのは、誰の手も届かないのと同じだ。
 心の底から守りたいと願ってくれているのに、その手段を奪い取るのと同じだ。知らなければ、隠してしまえば、守ることすらできないのだから。
 それなら、と一成は思う。「守りたい」と願ってくれるみんなの気持ちをなかったことにしたくはない。傲慢で自分勝手な話かもしれない。だけれど、心の底からの願いを無視して、みんなを裏切るほうがよっぽど嫌だ。

 一成はぎゅっと膝を抱えて、深く息を吐いた。視線を動かせば目に入るのは、小さな明かりで照らされた見慣れた部屋だ。
 気づいたら夏組は202号室に集合していることが多いから、そこかしこにみんなの笑顔を感じるような気がした。
 その気配を辿った一成は、静かに思う。
 悲しい顔をさせたいわけじゃない。できればいつも笑っていてほしいと願っている。だけれどそれでも、一成が何でもない顔をして一人でこの夜を耐えるほうが、夏組はきっともっと痛い顔をする。
 傲慢でも、思い上がりでも、一成の知る夏組ならそうするのだ、とただの事実として思った。
 だからそれなら、と一成は胸中で言葉を落とす。
 自分自身に聞かせるような、ここにはいなくてもいつだって傍にいてくれる夏組に聞かせるような、そんな気持ちで。夏組のみんなを思い浮かべて告げる。
 悲しい思いをするなら、代わりにいっぱい笑顔をあげる。傷ついたのなら、一緒に乗り越える。だからどうか――この夜の果てまで一緒に過ごしてほしい。
 一成は、もう一度自分の膝を抱え直す。しかしそれは、自分の体を抱きしめるためのものではなかった。朝を待つために体勢を整えたのだ。その瞳は静かに夜を見つめているけれど、奥底には確かな光が宿っている。
 暗闇の中に独りぼっちで放り出されたようだった。行き先もわからず、安心できる場所もないのだと思った。
 だけれど、今の一成は行き先も、安心できる場所もきちんと思い出していた。夏組の彼らはいくらだって話を聞いてくれる。天馬の近くは、世界で一番安心できる場所だ。
 だから一成は朝を待つ。もしかしたら、夜中だろうと何だろうと起こしてくれればいいと言うかもしれないけれど、自分のせいで眠りを妨げることはしたくなかった。
 一人で抱え込むわけではないし、朝を待つくらいは平気なはずだ、と一成は結論を下す。

(朝まであとどれくらいだろう)

 思った一成は、そっとスマートフォンを引き寄せる。ライオンのストラップが目に入って、唇には笑みが浮かんだ。もちろん天馬を思い浮かべたからだ。

(テンテン、何時に起きるかな)

 幸い明日は土曜日で学校は休みだ。天馬もロケが終わって、しばらくは仕事が入っていないと聞いていた。だから恐らく明日は寮にいるはずだ。
 朝になったら、まず天馬を探すのだ。顔を見て、名前を呼んで、おはようと言って、それから。
 天馬にまず話をしよう、と一成は決めていた。守らせてくれと、一番に助けに走りたいと言っていたことを覚えているし、何よりも一番に安心できる場所は天馬のそばだ。
 だから、この夜を越えたら真っ先に会いに行きたかった。
 決して楽しい話ではない。それでも天馬は、一成の言葉をきちんと聞いてくれる。
 悲しい顔をするかもしれない。辛い表情をさせてしまうかもしれない。だけれど、それでも、一人で抱え込むほうがよっぽど天馬を傷つけるのだと信じる。
 だから、一成はちゃんと話をすると決めた。天馬なら大丈夫。天馬なら、一つ残らず心の全部で受け止めてくれると信じている。
 一成は引き寄せたスマートフォンのスリープモードを解除する。
 4時を過ぎた時刻だ。辺りはまだ暗いけれど、太陽が出るまではそう遠くもない。いずれ夜は明けるだろう。一成は眠ることなく、その瞬間を待っている。