空へ還る日



 波の音が聞こえている。遠くから鳥の鳴く声がして、ゆるやかに流れる風がどこかの梢を揺らしていた。ささやかな音に紛れるように声を紡ぐのは、砂浜に座る一成だ。

「やっぱ6人のWater me! 楽しかったよねん! 初演じゃできなかったことができるようになってるのわかると楽しいし、くもぴ入るとめっちゃ話広がるし!」

 嬉々として語る言葉を、隣に座る天馬は相槌を打ちながら聞いている。
 一成は、一つ一つ思い出を取り出すようにして、これまで過ごした日々を語る。
 MANKAIカンパニーに入った時のこと。夏組として数多くの舞台に立ったこと。他の組と一緒に演じた物語。MANKAI寮で過ごした、笑顔ばかりが記憶に残るような毎日。
 幸福にあふれた日々だったと、心底嬉しそうに口にする。
 一成が笑っていてくれてよかったと天馬は思う。楽しそうにしていてくれることは、天馬にとっての喜びだ。
 だけれど、同時に胸が騒ぐのは、一成が全てを思い出に分類していくことを肌で感じているからだ。
 明日一成はいなくなる。これから先、一成とともに語られる記憶は作れない。全ては過去のものになり、遠い思い出となっていく。
 一成はそれを理解しているのだ。だから、まるで何かの結末に向かっているように話をしている。この物語の終幕を知る素振りで、全ての思い出を語り終えたらそれでこの時間も終わりだと告げるみたいに。
 終わりに向かっていることを、否応なしに天馬は感じている。それを聞きたくなくて、まだ終わりにはさせたくなくて。何よりも、伝えたいことがあったから、天馬はタイミングをうかがって一成を呼んだ。
 ちょうどよく話にも区切りがついていたところだったので、一成は「なになに?」と天馬へ言葉を返す。
 若草色の瞳をじっと見つめたあと、天馬は懐から一枚の紙を取り出した。三つ折りにした薄い紙を差し出すと、一成は笑顔のままでハテナマークを浮かべる。
 ただ、天馬がじっと動かないのでひとまず紙を受け取ってくれた。それから、不思議そうな顔で「何これ」と言うので、天馬は簡潔に答えた。

「婚姻届」
「へ!?」

 素っ頓狂な声を上げた一成は、手の中の紙をまじまじと見つめている。聞き間違いかな、という顔をしているので、天馬は淡々と言葉を続けた。

「オレの名前は書いてある。証人は夏組のあいつらに頼んだ。四人いれば充分だろ」

 婚姻届の証人は二人以上なので、四人でも問題はないらしい。全員喜んで書いてくれた、とその時の顛末を語る天馬はあまりにもいつも通りだったので、一成は夏組の様子を自然と頭に思い浮かべる。
 確かに、夏組の四人なら快く名前を書いてくれるだろうな、と納得しそうになったけれど我に返った。

「いやいや、待ってテンテン。どゆこと」
「今書けば今日中には受理されるから間に合う」
「そういうことじゃなくて」

 手の中にある婚姻届へ目をやったあと、一成は強いまなざしを天馬に向けた。困ったように眉を下げて、だけれど瞳の奥には苛立ちのようなものが揺れている。一成はそのまなざしと同じ声で言った。

「オレ、好きって言わないでってお願いしたじゃん」

 何だか少し怒っているみたいな声をしているから、天馬の唇に笑みが浮かんだ。
 いつも笑顔を絶やさない一成の、心の奥底に触れたみたいで。自分の前では感情をそのままぶつけてくれることが、天馬には嬉しいのだ。その喜びを感じながら素直に答える。

「好きとは言ってないだろ。ただ、婚姻届にお前の名前を書いてくれって言ってるだけだ」
「とんち大会やってるんじゃないんだよね~?」

 呆れたように言った一成は、毒気を抜かれた表情で溜め息を吐く。それから諦めたような顔で、ゆっくり紙を開いた。
 特に飾りのない、役所でもらってきたのだろうと思われる婚姻届だ。
 そこには、見慣れた天馬の字で氏名や住所が書き入れられているし、証人欄には夏組四人の名前がある。一成が書くべき欄だけが空白になっていた。
 以前は同性の婚姻は認められていなかったけれど、法律の改正により同性婚が可能になった。だから、今ここで一成が必要な事項を記入して提出すれば、二人の婚姻関係は受理される。
 天馬も一成も成人済みだから、当人たちの意志だけで結婚は可能だ。
 嘘でも冗談でもなく、天馬が本気で婚姻届を用意したことくらい、一成だってわかっている。
 天馬がそんな冗談を言う人間ではないということもあるし、ただ純粋に一成との関係を形にしたいと思ってくれたこともわかっていた。一成が死んでしまう前に。明日には死んでしまうその前に。
 わかっているからこそ、一成の答えは一つしかなかった。婚姻届を丁寧に折りたたむと、天馬に差し出して答える。

「だめだよ。テンテン、これは書けない」

 きっぱり告げると、天馬が強いまなざしを向けた。意外そうな顔ではなかった。一成がうなずかないことを、恐らく予想はしていたのだ。だけれど、納得しているわけではないことは表情が如実に語っている。

「お前はオレのことが好きだろ。オレの気持ちだってわかってるはずだ。それなら、どうしてだめなんだ」

 何一つ揺るぎのない声だった。一成の気持ちが自分に向かっていることを確信しきって、二人の関係を阻むなど何もないのに、どうして首を振るのかと問いかける。
 一成は真っ直ぐ天馬を見つめた。静かな目をしていた。凪いだ海のような穏やかさを浮かべてほほえんだ一成は、はっきりと告げた。やわらかで、それなのにやけに耳に残る声で。

「だってオレは、テンテンに何も残したくない」

 一成は言う。とても静かな声で、一つ一つの言葉を丁寧に確かめるように、天馬に向かって告げる。

 テンテンはやさしくて、愛情深い人だ。心の全部で大事なものを大事にできる。だから、オレがいなくなったあとも、ずっとオレのことを考えてくれて、オレのことを想ってくれると思う。テンテンはそういう人だ。

 並べられる言葉は、一成から天馬への揺るぎない信頼だ。天馬が一成の気持ちを疑わないのと同じくらい、一成だって思っている。
 天馬の心が向かう先は自分自身だと。どれほど豊かで真摯に、心の全てで想っていてくれるのか、一成は当たり前みたいに知っている。
 一成は、一つ深呼吸をした。アメジストの瞳を見つめて、ゆるやかに告げる。誰よりも大好きで、世界で一番大切な、心からの愛をくれる人に向けて。

「オレはテンテンを、オレに縛りつけたくないよ」

 天馬の愛情深さを、一成は一つだって疑わない。だからこそ、選ぶ答えは一つしかなかった。
 だってもしも、今ここで天馬の言葉を受け入れたら、一成は天馬の恋人になってしまう。世界の中のたった一人、特別な存在になってしまう。明日には天馬の前からいなくなってしまうのに。
 一成は、やさしさの全てを込めたような声で言った。天馬は降り積もるようなその言葉を、一成の心をただ聞いている。

「これから先、今日のことを思い出すなら、その時は友達を失くした日だって思ってほしいんだ。勝手なこと言ってるし、そんなことしても意味なんてないかもしれないけど。でも、特別な誰かを失くした思い出を残してほしくない」

 祈るような声で紡がれた言葉は、実際一成の祈りなのだろう。
 天馬のこれから。一成のいない未来。いつか今日を思い出と語る時、この記憶に意味をつけるのなら、恋人ではなく友人であってほしいと、一成は祈っている。

「テンテンはきっと、これからもっと素敵な恋人に出会うよ。テンテンにとっての恋人の記憶は、幸せでいっぱいじゃなきゃだめなんだ。終わりに向かうしかない、失うことがわかっている記憶なんか、テンテンに残したくないよ」

 静かに告げられた言葉に、天馬はただ理解する。一成の願い。「オレのことを、好きって言わないで」という言葉の意味。
 互いの気持ちなんてとっくにわかっていた。天馬が一成に向けるものと同じ心を一成が持っていることくらい、ずっと前から知っていた。
 あとはもう、言葉にしてしまえば二人の関係は新しいものになるはずだった。だから、こんなことはもしかしたらただの茶番なのかもしれない。
 だけれど、一成はそれを願ったのだ。まだ言葉にしていないなら、はっきりとした形にしていないなら、友達のままでいられる。恋人という名前がついていない今なら、まだ友達のままだ。
 好きだと口にされたら、一成はきっと拒めないとわかっていた。だから天馬に願った。
 どうか形にしないで。言葉にしないで。この関係に恋人という名前をつけないで。友達のままでいて。
 だって恋人という形を与えてしまったら、天馬は特別な一人を失った記憶を永遠に持ち続ける。ただの友達であれば、大事な人の一人でいられる。せめてそうありたかった。
 一成は願ったのだ。天馬にとって特別なたった一人の記憶は、幸せであふれるものであってほしいと。
 恋人との記憶に、失う痛みは要らない。終わっていくしかない自分との記憶に、恋人の名前をつけたくない。だって明日にはいなくなるのだ。

「特別だったなんて記憶、何にも残したくない」

 もしも恋人という名前がついたなら、あやふやだった全てのものが、ハッキリとした形を持ってしまう。
 そうしたら、天馬は永遠に一成を特別な位置に置いてくれる。恋人を失った記憶を持ち続けて、未来までずっと天馬を縛りつけてしまう。
 傲慢かもしれないけれど、一成はただの事実として理解してしまった。だからこそ、好意にうなずいてはいけなかったし、恋人という関係性を作ってはいけなかった。
 何一つ残したくなかった。単なる友達で、ただの夏組の三好一成でいたかった。

「――って思ってたのに、婚姻届は予想外すぎるんだよねん。こんなの、戸籍にまでオレが残っちゃうじゃん」

 法的に婚姻関係を結べば、天馬の戸籍にも履歴が残る。何も残したくない一成にとっては、到底うなずけない話だった。
 一成はやさしい笑みを浮かべて、婚姻届を天馬の右手に握らせた。薄い紙は弱い風を受けて、ささやかに揺れた。
 天馬は一成の言葉に、唇を噛んだ。心からの祈りだとわからないはずがない。一成は本当に、心の底から願っているのだ。
 特別だったという記憶を天馬に残したくないと。明日にはいなくなってしまう自分にはその資格がないと。
 だけれど、天馬は残してほしいのだ。特別だったと、世界中のたった一人だったのだと。一成が生きていたことを、思う限りの全てで残しておきたいのに。他でもない本人が、それを許してはくれないのだ。

「ね、テンテン。他に何かお願いない? 婚姻届は書いてあげられないけどさ、他のお願いなら叶えられるかもだし!」

 わざとらしいくらいに明るく言ったのは、天馬が苦しそうな顔をしていることに気づいたからだろう。
 笑ってほしいと、笑顔を見せてほしいと願うのは何も天馬だけではない。一成だって、天馬にはたくさん笑っていてほしいし、天馬が嬉しいのなら一成だって幸せなのだ。

「ちょっと難しいかな~ってお願いでもいいよん。オレさ、神様にちょっと頼んでくるから!」

 ニコニコと笑顔を浮かべた一成が、胸を張ってそんなことを言う。天馬が目をまたたかせたのは、一体どういうことか、と思ったからだ。
 一成はくすぐったそうな、何かやわらかいものを抱きしめるようなほほえみで答える。

「みんなよりちょっと先に、神様のとこに行く感じじゃん? それなら、みんなのお願いちゃんと叶えてよって頼んでこよっかなって」

 冗談の響きで告げられた言葉だ。しかし、一成が心から言っていることくらい天馬にはわかった。一成は楽しそうに言葉を続けた。

「みんなのお願い、ちゃんと聞いてきたんだよ。だからほら、テンテンもカズナリミヨシにお願いしてみない?」

 MANKAIカンパニーのそれぞれと、一人ずつ時間を過ごした。その時に、一成は叶えてほしい願いはないかと聞いたのだと言う。
 先に神様のところに行ってるから、お願いちゃんと叶うように頼んでくるよ。みんなのお願い、神様まで届けてくるよ。一成は全員にそう告げたらしい。
 その事実に、天馬の胸が苦しくなる。
 きっと一成は、朗らかに、きらきらとした笑みを浮かべて言ったのだ。いっそ、重大な使命を任された凛々しささえ忍ばせて。それは、どうしようもないほど強くてやさしい三好一成らしい言葉だった。
 突然余命を宣告されて、理不尽な死を前にして、それでも一成は一成らしさを失わない。
 人より先に死んでしまう。その事実に、一成は別の意味を与えるのだ。たとえそれが、どんなに馬鹿げた話だとしても、全てを悲しみで塗りつぶしてしまわないようにと振る舞うのだ。
 やわらかな光をたたえて、一成は天馬を見つめる。何かお願いはないか、と視線が問いかけている。その姿を見つめ返す天馬の胸は、苦しくてつぶれてしまいそうだった。
 明日には死んでしまうのに、泣き喚くでもなく、何かを呪うでもない。ただ清らかに、願いを叶えてやりたいと祈っている。
 ああ、こんなにもきれいだから、神様は一成を連れていってしまうんだ、と天馬は思った。
 目の前の一成の背には、天使の羽のような翼が生えている。ただの腫瘍だとわかっているけれど、本当に天使の羽なのかもしれないと天馬は思う。
 きっと神様が、連れて行きたい相手を選んで翼を与えている。こんなにきれいでやさしいから、一成は選ばれてしまった。手元に置いておきたくて、こんなに早く連れていってしまうんだ。

「――神様に願うことなんかない。願いは自力で叶える」

 ぼそり、と天馬は言葉をこぼした。
 神様。一成を連れていってしまう。馬鹿げた話でも、思ってしまった。
 願いを叶えてくれなんて頼まなくていい。そんなもの届けに行かなくていい。神様とやら願うことなんか、何一つない。一成を連れて行く神様になんて。

「うん。テンテンならそう言うかなって思った」

 楽しそうに言う一成は特に意外そうな顔をはしていなかった。テンテンらしくてカッコイイよねん、と朗らかだ。
 カンパニーメンバーの「お願い」もそれぞれ個性があったし、本当みんな面白いよねと笑っている。その顔を見つめる天馬は、それなら、と思った。人の願いを聞いて回ってばかりだったろう、目の前の人間は。

「一成の願いを言えよ。オレが叶えてやるから」

 みんなの願いならたくさん聞いただろう。しかし、それでは、一成の願いは誰が聞いたのだと天馬は思った。
 自分の願いには頓着しないタイプだということはわかっていたから、きちんと聞いてやりたかったのだ。
 一成は、一瞬驚いたような顔をしてからへらりと笑った。照れくさそうな表情を浮かべて「オレの願いは別に良くない?」と言うので、天馬はきっぱりと告げた。

「いいわけないだろ。むしろ、お前の願いを叶えてやりたいってのはオレの望みだ」

 一成ならきっと、素直に言わないだろうと思っての言葉だ。だけれど、嘘偽りのない天馬の本心でもある。一成が望むならば何だって叶えてやりたいと、天馬はいつだって思っている。
 恐らく一成は、天馬の本気をしかと感じ取った。一成の願いを、望みを叶えてやりたい。天馬が心から望むことだとわかってしまえば、一成の答えは一つだった。少しだけ考えたあと、ゆっくりと口を開く。

「――テンテン、あのね、お願いがあるよ」

 恐る恐る、といった調子の言葉だった。天馬はやさしく瞳を細めて「なんだ」と問いかける。一成の望み。心から願うこと。一成は、小さく深呼吸をしてから、そっと唇に言葉を乗せた。

「幸せになってほしい」

 凛とした声だった。同時に、泣きそうな声だった。やさしさと、震えるような決意と、あふれだす心が形になったような、そんな声で一成は言う。

「世界で一番、誰よりも幸せになってよ。たくさん笑って、いっぱいお芝居してね。好き嫌いしないでちゃんとご飯食べて、運動――はテンテンならだいじょぶかな。夜もちゃんと寝てるし」

 ふふ、と唇に笑みを刻んだ一成は、愛おしそうに目を細めて自分自身の願いを口にした。天馬に望むこと。叶えてほしいこと。

「辛い時はちゃんと辛いって言って。意地張って、大丈夫だとか言わないようにね。あんまり無理しちゃだめだよ。テンテンは頑張りすぎるから、時々息抜きすること忘れないで。夏組のみんながいてくれるからだいじょぶだと思うけど、無理はだめだかんね」

 少し厳しい顔をして一成が言うので、「子どもじゃないんだ」と返そうとした。しかし、上手く形にならなかったのは、一成の願いがあふれんばかりに降ってくるからだ。
 一成の願いを叶えたかった。望むことなら何だって。
 だけれど、今口にする願いは、一成自身のことなんて一欠けらもなかった。全部、天馬のための願いだった。一成は、表情をやわらげると瞳に輝きを宿して言う。

「いっぱいお芝居して。たくさん、たくさんの物語を演じて、新しい役をやって、皇天馬をいっぱい見せて。世界中の誰もがテンテンを知ってるってくらいの、大スターになってよ」

 天馬ならきっとそんな役者になると、一成は信じている。だからこれは願いではないのかもしれない。それでも天馬に言いたかったのだ。
 いつか天馬は、世界のどこにいたって名前が響くような、そんな大スターになる。そしたらきっと、空の果ての自分のところまで、天馬の名前は伝わるに違いないから。
 一成はいつかの未来を思い描いた。自分のいない世界で生きていく天馬。これから先に出会うであろう、たくさんの喜びと幸福。
 どうかそれを享受してほしいと願いながら、天馬に告げる。いつか、いつかの天馬の未来に思いを馳せながら。

「それで、誰かを好きになったら、今度はちゃんと好きって言ってね。その人のことめいっぱい大事にして、一緒に時間を重ねて、それでゆっくりおじいちゃんになって」

 いつか天馬は、また誰かを愛するだろう。一成に向けて真っ直ぐとそそがれる心の全てみたいに、誰かを愛する日が来たなら、その時は。
 伝えられなかった言葉を届けて、特別な一人なのだと手を取って、人生を共に歩んでほしかった。今度こそ、失うばかりの全てではなく、共に育んでゆく日々を抱きしめてほしかった。
 一成はやわらかなまなざしで、天馬を見つめた。あんまり綺麗で、あんまりやさしくて、何もかもの言葉が奪われる。ただその瞳を見返すことしかできない天馬の耳に、一成の声がふわりと届いた。

「どうか、幸せな人生を生きてよ」

 静かで、おだやかで、やさしい。心の全てがあふれて形になる。一成の願い。天馬に叶えてほしいこと。そんなものはたった一つだ。これだけだ。
 幸せに、どうか幸せに。自分自身のことなんか、何一つ望まなかった。一成が願ったのは、ただ天馬の幸せだけだ。
 天馬はぎゅっと眉を寄せた。泣きたかった。何度も思った言葉が、胸にこだまする。
 どうして。どうして一成なんだ。誰よりも大事にしたい人は、明日にはいなくなる。こんなにも綺麗にオレを想ってくれる。オレのことを、世界で一番愛してくれる。一成は、明日にはいなくなってしまう。

「オレのことは、忘れてもいいからね。時々思い出してくれたら嬉しいけどさ。忘れちゃっても怒らないよ」

 ほんの少し冗談の響きが混じった言葉に、天馬ははっとしたように目をまたたかせる。一成はイタズラっぽい光を瞳にひらめかせたあと、すぐにへにゃりと眉を下げた。困ったような表情でつぶやく。

「なんて、ずるいよね。こんなこと言われたって、はいそーですかってテンテンが忘れるわけないのに」

 わかっていても、一成は言いたかったのだろう。忘れてもいい。失う痛みを覚えているくらいなら、自分のことなんか全部忘れてくれればいい。天馬が決してそれを選びはしないとわかっていたとしても。
 そうだ、と言いたかった。忘れてなんかやるもんか。今日までの日々全部、今この瞬間の何もかも、未来までずっと覚えている。一つだって忘れてたまるか。思い出す度に痛い記憶ごと、みんな覚えている。
 だけれど、一成がこの言葉を望まないことも天馬は理解していた。だから、答える代わりに左手を伸ばした。
 少しだけためらったあと、隣にいる一成の髪に触れ、そっと頭を撫でる。やわらかな金髪に指を滑らせ、慈しむように手のひらを行き来させる。
 一成は、一瞬驚いたように体を固まらせたものの、すぐに力を抜いた。天馬の手を受け入れながら、ねえ、テンテン、と名前を呼んだ。なんだ、と答えれば、祈るように言葉を重ねる。

「世界で一番幸せになってよ。たくさん笑って、楽しいことをいっぱい見つけて、誰より一番幸せになって」

 それはきっと、この世界の何よりも美しい言葉だ。天馬が知るあらゆる全ての中で、一番綺麗で一番残酷で、哀しくて愛しい。
 天馬は髪を撫でる手に力を込めて、「ああ」とうなずいた。うなずくしかできなかった。
 一成の望み。心の底から願うこと。何だって叶えてやりたい。たとえそれが、一成のいないいつかの話だったとしても。天馬は一成の望むことなら、叶えてやると決めていた。
 だから天馬は思う。
 ああ、そうだ。これからオレは幸せになるのだ。どこを探したって一成のいない場所で。「幸せだった?」と聞かれたら、「幸せだった」と答えられるように。いつかまた、一成に笑って会えるように。
 お前のいないこの世界で、オレは幸せになるのだ。










END





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