「午前五時の一膳」伏見臣:昔ながらの定食屋(60代・自営業)
炊飯器には炊き立てのご飯、付け合わせの小鉢は冷蔵庫に。鮭の切り身、ウインナー、卵は注文が入ったらすぐ焼き始められる。
それから、鍋にはいっぱいのおみそ汁。蓋を開ければ、お腹の空くいい匂い。自分で言うのもなんだけど、今日もいい出来だと思う。これだけは、昔から私の仕事。毎日出汁や分量を少しずつ変えて、その日一番美味しいおみそ汁を作る。
料理はダンナの仕事で、接客は私の担当っていう感じになっているけど、おみそ汁だけは昔から私が作っている。「これだけは敵わないんだよなぁ」なんて、昔はしょっちゅう不思議がっていたっけ。最近は「まあ、これがウチの味だからな」なんて言っている。
料理人として働いていたダンナが独立して、店を構えて数十年。すっかり古びた店と一緒に、私たちもずいぶん古びてきた。でも、それがウチの味なんだから、と思うことにしている。おかげさまで、常連さんもたくさんいる。チェーン店のような品ぞろえは難しいけど、その分自由にやれるのがいいところだし、年月が経った分だけ愛着だってある。
料理の仕込みやお冷の準備がそろったことを確認して、最後の仕上げとしてもう一度机を拭いた。机や椅子は、長く大切に使ってきた。年季は入っているけど、常に清潔であるよう気をつけている。一つ一つ、丁寧に机を拭きながら、しょうゆやソース、割りばしなんかがちゃんとそろっていることを確認した。椅子にもガタつきはないし、お客さんを迎える準備はばっちりだ。
私は手に持っていた布巾をカウンターの裏に置いて、ダンナに声を掛ける。厨房に立っていたダンナがうなずいたのを確認して、のれんを奥から取り出した。開店準備の最後の仕上げ。店を開いてからずっと一緒に歩いてきた、藍地に白文字のシンプルなのれんを持って、外へ出る。
早朝ということで、さすがにまだ蒸し暑さはない。日中にかけて少しずつ気温は上がっていくだろうけど、今は過ごしやすい気がする。まだ日が昇って間もない時間ということもあって、何となく爽やかな気持ちになった。六月も下旬になれば朝でも暑くなるけど。
毎朝の仕事としてのれんを掛けて、私は大きく深呼吸をする。一日の始まりの、新しくなったばかりの空気が体中を巡っていくような気がした。
ウチの店は、開店時間が早い。24時間営業のチェーン店ならともかく、ただの個人店だと大体は十時前後とか、そもそも昼からの営業だったりする。それなのに、日が昇るくらいの頃には店を開けているのは、お客さんが来るとわかっているから。
一番混むのは昼食時だけど、案外早朝のこの時間にもお客さんはやって来る。周りにあんまりお店がないこともあるし、昔から朝早くやっているのがウチだけだったからだと思う。
簡単に店の周りを見て、ゴミなんかが落ちていないことを確認して店へ戻った。最初のお客さんが来るとしたら、そろそろ。何度か時計へ目をやって、時間確認。もうすぐ五時になりそうな頃、見知ったお客さんが入ってきた。
がっしりした体格の、大柄な男の子。顎の下の傷や大きな体はちょっと威圧感があるけど、漂う雰囲気はおだやかだし、どんな子なのかはわかっていた。
「いらっしゃい。今日もお弁当でいい? この前玉子だったから、鮭にしようか」
「おはようございます。はい、いつものお弁当で――そうですね、鮭をお願いします」
そう言って、深々と頭を下げる。私はうなずいて、ダンナに注文を伝えた。とはいっても、いつものことだから、注文する前にとっくに火を入れ始めている。
「それじゃ、ほら座って。今用意するから」
席の一つを指すと、大きな体をちっちゃくして椅子に座る。それから、いつもの定食でいいかと聞けばおだやかな笑顔で「はい」とうなずく。
「ありがとうございます。朝、ここで食べられるのが楽しみなんです」
続いてそんなことを言うから「そう言ってもらえると、朝から嬉しいわぁ」と答えた。ちょっと冗談みたいな感じだけど、本当のこと。
「撮影っていうのも大変だね。ウチとしては、朝から来てくれてありがたいけど」
「そうですね。いろいろと準備もありますし――朝食のお弁当を用意してもらえるのは、とてもありがたいです」
やさしい笑顔で言うこの子は、カメラマンとして働いている。といっても、詳しいことを知ってるわけじゃないんだけど。
店の近くに、撮影スタジオがあって、そこを利用するカメラマンとかモデルとかが、ときどきウチに来ることがある。その内、よくそのスタジオを利用するカメラの会社の新人が目の前のこの子だった。社会人なんだからこの子って呼ぶのはおかしいのかもしれないけど、学校出たばっかりなんて「この子」って言っていい年齢だと思う。ついこの前まで学生だったわけだし。
先輩に連れられて、ウチに初めて来たのは確か昼食の混雑が収まった頃。「うちの新人なんです」と挨拶をされて、お弁当の手配についてあれこれと説明していた。
メニューにあるわけじゃないけど、頼まれればお弁当も作っている。撮影スタジオを利用している人はウチでお弁当を頼めることを大体知ってるから、よく注文が入る。特に、早朝にしっかり朝ご飯を食べたい、なんて時に重宝されている。
たぶん、朝のお弁当の手配は新人の仕事だから説明していたんだと思う。どれくらいの時間に注文に来て、受け取るまではどれくらいかかるかとか、そういうこと。しっかりした体格で、威圧感のありそうな子だけど、説明を聞く様子は一生懸命だったし、こっちに質問をする時もすごく丁寧だった。だから、新人を応援する気持ちであれこれ答えていた。
それから少し経って、実際に店へやって来た時は別の先輩と一緒だった。のれんを掛けてほとんどすぐ、朝早くから来店するお客さん。カメラの会社の人だな、と思ったし、恵まれた体格には覚えもあった。ああ、あの新人さん。初めてだから、先輩がいろいろ教えてあげるみたい、なんてことを思っていた。
案の定、先輩は人数分のお弁当を注文して、戻ってくるまでの時間だとかを説明していた。それから、スタジオでまだ仕事があるから自分は一旦戻る、と言ってから新人さんに言う。出来上がるまではもう少しかかるから店で待って、その間にしっかり朝食を取るようにって。
体格のいい新人さんは、びっくりしたような顔をして、それから申し訳なさそうに首を振った。まさか、自分だけ朝食を食べるわけにはいかないって思ってるのはわかった。でも、先輩は「俺たちは慣れてるけど、お前はまだ仕事に慣れてないだろ。ちゃんと食べることも大事なんだ」と明るく笑った。それから、私に向かって「ってことで、定食一つこいつにお願いします」と言ってさっさと出ていってしまった。
結局、残された男の子は先輩の言葉を守った。強固に突っぱねるようなタイプじゃないんだと思う。きれいに定食を空にして、「ごちそうさまでした。美味しかったです」と言ってから、店を出ていった。
それから何度か、朝のお弁当の注文へ来るようになったけど。そのたび朝の定食を食べていくようになったのは、どうやら会社の方針らしい。根を詰めて頑張りすぎるということもあって、朝食をしっかり食べさせる時間をきちんと持たせている、というのは昼時の先輩社員のやり取りで知った。
会社の人たちに大事にされているんだな、と思ったしそれはわかる。毎回完食して、出汁の違いとか味付けの感想も言ってくれるし、いつもおだやかで丁寧。すごくいい子だなって、私もダンナもわかるくらいだし。
厨房に戻った私は、テキパキと、朝の定食を用意する。ダンナが手際よく盛りつける横で、ご飯はちょっと多めにして、おみそ汁を丁寧にお椀へ注いだ。「いただきます」と両手をそろえて、とてもきれいに食事をするあの子の、一日の活力になるようにって思いながら。