「ガラス越しの世界から」卯木千景:水槽の金魚
勢いよく部屋に入ってきたのは、あたしの同居人。鞄を投げ捨てるみたいに置いて、中身をひっくり返している。もうちょっと落ち着いて、優雅に動けないものかしら。思いながら、すいすい、と尾びれを動かして水槽を移動する。
水草の間から顔を出して、部屋全体がよく見える場所まで泳いだ。大きくはない部屋の真ん中。なかなかいい位置にあるのがあたしの水槽。広々としてて、いつでもきれいに掃除されている。すごくお腹が空いたことも、息が苦しくなったこともないし、部屋はしょっちゅう散らかってるわりに、あたしの世話を忘れたことはない。
他の仲間と一緒にひしめきあっていた水槽から、ここへ連れてこられた。最初は警戒してたけど、あたしだけの水槽は居心地がよかった。きれいな水におだやかな水流。食べ物もすぐに出でくるし、新しい住処を気に入るまで時間はかからなかった。
それに、同居人はしょっちゅうあたしに話しかけた。何を言ってるのかはわからないけど楽しそうだったし、一緒に暮らしてるんだからにこにこしてる方があたしだって嬉しい。ときどき落ち込んでることもあるけど、そういう時は目の前まで泳いでいって、あたしの尾びれを見せてあげると元気になる。ひらひらと舞うみたいな尾びれはあたしの自慢。あたしを選んだくらいなんだから、同居人は見る目もある。この尾びれを見たら、元気になるに決まっている。
だから、何だか落ち込んでる時はよく見えるように泳いであげる。外から帰ってくると、たまにめそめそしてるから、そういうときはあたしの出番。本当、世話の焼ける同居人なんだから。まあでも、そういう暮らしがあたしは結構好きだから、たぶんあたしたちは上手くやってるんだと思う。
同居人は、部屋からいなくなったりずっと家にいたりする。どういう違いがあるかよくわからないけど、外に行くときは大体嬉しくなさそう。あたしだって、水槽から外に出るのなんて嫌だから同居人もそうなんだと思う。外なんて怖いことばっかりだもの。ずっと部屋にいればいいと思うけれど、何だかそうも行かないみたい。
でも、ときどき楽しそうに外へ出掛けるときはある。いつもの嫌そうな感じはは全然なくて、何だかとても幸せそう。着ている服も髪型もずいぶんおしゃれにしている雰囲気があるし、すごく気合いを入れて外へ出掛けていく日もある。
外って、危険なだけじゃないのかしら。水草の間に収まりながらそんなことを思って、同居人を送り出す、なんてことは何度かあった。ちなみに、そういう日は帰ってきたときもずっと嬉しそうにしている。にこにこ笑顔で、やたらと明るい声であたしにいろいろ教えてくれる。
同居人は、あたし以外に一緒に住んでいる相手はいない。だから、話し相手になるのはあたししかいなかった。何を言っているかはわからなくても、あたしはちゃんと話を聞いてあげる。水槽の中から、何の話をしているのか一生懸命考えながら。
そういう積み重ねの結果、あたしは同居人が何をしているのか、何がそんなに嬉しいのか、だんだん理解していた。勘と閃きが鈍くちゃきっとわからなかったと思う。あたしの頭の回転が速いってことよね。
だから今、同居人が何をしているかもわかったし、これから何をするのかもわかっていた。鞄の中身をひっくり返した同居人。机の上に広げた薄い袋をたくさん開けて、中身を確認してしばらくぼーっとしていた。だけど、一通りが済んでから、中身を手にすると水槽へ近づいてきた。
にこにこ、顔いっぱいに笑みを浮かべて、あたしの方へ示したのは何枚かの紙。そこには人の姿が映っている。同居人じゃないし、この部屋に来たことのある人間でもない。でも、あたしはその人間を知っていた。
同居人が持っている紙には、一人の男の人が描いてある。すらっとした細身で、水草とか苔みたいな緑の髪に丸い眼鏡を掛けた男の人。これは、同居人が熱心に応援している人間。
同居人は一人の家で、よく四角いものと向かい合っている。仲間と一緒に水槽で暮らしているとき、物知りな誰かが四角いものを「テレビ」とか「パソコン」とか言っていたから、たぶんそういうもの。
四角の中には、赤とか黄色の髪の人間たちがいっぱいいた。不思議な格好をして、ごちゃごちゃ動き回っている様子を、同居人は熱心に見ていた。何をしているのか、全然わからなかったけど。そういうことが何度かあって、どうやら同居人は四角の中の人間を見ることが好きらしい、と気づいた。
さらに、その中でも一番大きく反応するのが、あの丸い眼鏡の人間だった。あの人間がいっぱい出ていると、同居人は嬉しそうに騒いでいた。
おしゃれをして外に出掛けていく理由も、その辺りと関係があるらしい。楽しそうに外へ行って、帰ってきてからもにこにこしているとき、同居人はたいてい、あの四角の中の人間と関係あるものを持っている。たとえば今、あたしに見せた紙みたいなもの。
同居人は、あの丸い眼鏡の人間を描いた紙をたくさん集めている。たぶん、着ている服が違うみたいで、同居人にとってはそれが大事らしい。みんな同じ人間じゃないのかしら、と思うけど、あたしにはわからない何かがあるってことよね。
楽しそうな同居人は、紙を示してあれこれ言っている。何の話かはわからなくても、嬉しそうなことはわかる。たぶん、緑の髪の丸い眼鏡の人間がどれだけすてきか、みたいなことを話している。
そういう話をしているときの同居人は、きらきらしていて、何だかとてもまぶしい。開けっ放しにしていたカーテンから、外の光が入ってくるみたいな。仲間たちと一緒の水槽で泳いでいるとき、強い光が当てられたみたいな。そういうものに似ている。
同居人は、身振り手振りをまじえて、あたしに向かって熱心に話している。よく見える位置で、あたしはそれを聞く。これはきっと、四角の中にいた人たちとか、丸い眼鏡の人のことなんだろうな、と思いながら。
たぶん、同居人は外で見てきたものをあたしに話して聞かせている。緑の髪に丸い眼鏡。同居人が応援しているあの人間が、どんな風に動いて、どんな仕草をしていたかとか。何を言ったとか、どんな声をしていたか、とかそういうのを含めて、あの人間について一生懸命話している。
わからなくても、聞いている。何のことだか全然ピンと来なくても、詳しい話なんてたぶんこれから先ずっとわからなくても。こんな風に、きらきらまぶしいくらい、力強く言うならいくらでも聞いてあげる。
だってこれは、とても大切な話だってあたしはわかってるもの。
同居人は部屋の中だと元気だけど、外へ行くのはあんまり好きじゃない。もともとそういう感じだったけど、ずいぶん気合いを入れないと外に出られないときがあった。帰ってきたらぐったりして倒れ込んで、あたしのことすら見えないみたい。暗い雰囲気で、めそめそして、ずっとうずくまっていた。
あたしの世話だけは忘れなかったけど、あたしに話しかけることもなかったし、あたしのこともちゃんと見てくれない。見てくれなくちゃ、あたしの尾びれがいくらきれいだって、元気づけることもできない。
そんなときに出会ったのが、あの四角の中の人間たちで、丸い眼鏡の人間だった。最初はぼんやりとあの人たちを見ているだけだったけど、次第に同居人はちゃんと笑うようになって、あんまりめそめそしなくなった。最終的に、丸い眼鏡の人間の紙を鞄にしまうことで、だんだん元気に外へ行けるようになった。だから、あたしは同居人にとって、あの人間がどれだけ大事かわかっているつもり。
だいたい、見る目があることはとっくに知っている。あたしを選んだ人間が応援してるんだもの。それはとってもすてきな人に違いないでしょう?