「わんすてっぷ!」高遠丞:散歩中の飼い犬




 とん、とん、とん。お兄ちゃんが階段を下りてくる音がしたから、リビングのドアの前でお座り。用意はできてますよって、ばっちりですよって。
 ドアを開けると、お兄ちゃんはふにゃふにゃ笑って「おはよ」って言ってくれるから、わふって答える。足の周りをぐるぐるして、朝の挨拶。「朝っぱらから元気だなぁ」って言って、お兄ちゃんは大きなあくび。それから、「ちょっと待ってな」って言うから、わたしはちゃんと待っている。みんなが教えてくれたこと、ちゃんと覚えてる。おりこうさんだねって言っていっぱい褒めてくれたから、言われたことはみんな守れる。
 お兄ちゃんは少しして戻ってきた。眠そうじゃなくて、ぱっちりした目。手にはいつものバッグとわたしのリードを持っている。家族のみんなが「これがいい」「こっちはどう?」って選んでくれた。一緒にお店に行ったら、みんなそれぞれ「似合うのは絶対これ」って言うから、みんな一本ずつ買ってくれた。わたしは全部お気に入り。
 お兄ちゃんの前におりこうさんでお座りしてると、リードをつけてくれた。これをつけたら、散歩に行ける準備はばっちり。早く行きたくて、リビングのドアを押した。お兄ちゃんがうなずいて開けてくれるから、たたた、と玄関まで走った。タイルに下りて、玄関が開くのを待っている。
 お兄ちゃんはわたしと違って靴を履かないといけない。座って靴ひもをぎゅっと結んだあと、ポケットにいろいろしまって、玄関が開いた。外の匂いが一気に押し寄せてくる。風の匂い。葉っぱの匂い。昇ったばかりの太陽の匂い。
 家の中とは違う空気に嬉しくなって、ピンと上がった尻尾が揺れる。外は楽しいものがたくさんあるから好き。ちょっとぬるい道路の温度も、人の話し声も、車が通る音も好き。それに、外はいろんな匂いがする。
 これはラッキーの匂い。いつもより早くここを通ったみたい。あれ、コロンは何だかちょっと元気がないみたい。こっちは、毎朝すれ違う学校へ行く子たちの匂い。いつもは二人だけど、今日はもう一人一緒。
 すんすん、たくさんの匂いを嗅ぎながら進む。いろんなことを教えてくれる匂いに夢中になるけど、お兄ちゃんを置いていったりはしないように気をつける。おりこうさんだから、ちゃんとお兄ちゃんの隣を歩く。
 歩いてるうちに、もっとたくさん楽しくなってきた。おうちも好きだけど、散歩も好き。いろんなものがあって、たくさんの匂いがあって、お兄ちゃんも一緒だから、いっぱい嬉しい。
 お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、それからわたし。これがわたしの家族。
 お父さんは一日おうちにいるとき、車で大きな公園まで連れていってくれる。お母さんは、わたしのブラシをかけるのがとっても上手。お姉ちゃんは夜の散歩、お兄ちゃんは朝の散歩。
 みんながくれる美味しい食事とこっそりくれるおやつも大好きだし、みんなと一緒の時間も大好き。朝はお兄ちゃんと一緒にいっぱい散歩できる時間。嬉しくて毎日尻尾がぶんぶん揺れる。
 ときどきお兄ちゃんを見上げながら歩く。お兄ちゃんはわたしを見て、にこにこ笑っている。おうちにいるときは、あんまり笑わないけどわたしと一緒のときは、いつもこんな風。わたしはお兄ちゃんと一緒で嬉しいから、きっとお兄ちゃんもわたしと一緒で嬉しい。
 嬉しい気持ちでいっぱいになりながら歩く。お兄ちゃんと一緒の散歩は、だいたいいつもおんなじ道だから、どこへ行くのかわかってる。おっきな山みたいなおうちを曲がると、水の匂いがしてくる。いつも行く場所で、土手って言うんだよってお兄ちゃんが教えてくれた。
 しばらく歩いて、土手に到着。たたたって階段を上がって、土手を真っ直ぐ歩く。すれ違うのはわたしも知ってる人が多い。嗅ぎ慣れた匂いに安心しながら、一人一人の顔を見るとにこにこしてるからわたしも嬉しい。
 そのまま歩いてると、少し開けた場所に出る。ここは休憩してる人とか、体操してる人とかがいっぱいいる。お兄ちゃんは何となくそわそわした感じで、周りを見てる。わたしはすぐにピンと来たから、ぐいぐいお兄ちゃんを引っ張る。いつもはこんなことしないけど、お兄ちゃんに必要ならこういうこともしなくちゃ。
 匂いのする方向を辿って、目的の人の前にお兄ちゃんを連れてきた。おりこうさんだから、こういうこともちゃんとできる。お兄ちゃんが探してたのはこの人でしょ?
 がっしりした体格に短髪の、お兄ちゃんより年上のお兄さん。おうちにいるときのお兄ちゃんみたいに、あんまりにこにこってしない人だけど、初めて見たときからわかってる。この人はわたしのことが好きな人。
 土手ですれ違う人の中には、わたしが苦手な人もいる。そういう人はなるべく離れようとするから、わたしもなるべく遠くになるようにがんばる。代わりににこにこしてる人にはできれば近づきたいし、撫でてもらえたらもっと嬉しい。
 にこにこしてない人の中にも、実はわたしを好きな人がいるのは知ってる。そういうのは、何となく匂いとか雰囲気とかでわかるから、初めて会ったときから、なるべくお兄さんのそばに行きたかった。でも今はそれだけじゃなくて、お兄ちゃんのこともある。
「――おはようございます」
 お兄ちゃんが小さな声で言うと、お兄さんの方は聞きやすい声で「ああ、おはよう」って言う。お兄ちゃんは嬉しそうに、あれこれお話している。
 この場所で、何回かお兄さんとすれ違うようになって、この人はわたしを好きな人だって思って、そばに行きたかった。近くをうろうろしているうちに、わたしをきっかけにして、散歩中のお兄ちゃんとときどき話すようになった。
 お兄さんは全然にこにこしないけど、わたしが近づいてもくっついてもそのままにしてくれるし、ときどき撫でてくれるから嬉しい。だから、わたしはぐいぐい近づいて、お兄さんを見上げる。撫でてほしい、って気持ちでじっと見てるとお兄さんはわかってくれた。
「――撫でてもいいか」
 真面目な顔で聞くと、お兄ちゃんは「どうぞ」って言うし、わたしも「どうぞ」って頭を差し出した。そうしたら、ちょうどいい力加減で、首の周りを撫でてくれる。その間も、ふたりは話をしている。
 話の内容はよくわからないけど、たぶんトレーニングとかそういうこと。お兄ちゃんはあんまり言わないけど、体格が細いことを密かに気にしている。だからなのか、筋肉がしっかりついててがっしりしたお兄さんのことを、カッコイイって思ってる。土手から帰る道で、何回かつぶやいてた。
「やっぱり舞台って体力が要るんすね」
「そうだな。体力がないと、満足な芝居を最後まで演じられない」
 気持ちよく撫でられながら聞こえてくるのは、舞台の話になっていた。お兄さんは、役者という仕事をしている人で、舞台というものに立っている、らしい。お兄ちゃんはそれを聞いてやっぱり「カッコイイよなぁ」って言ってた。
 体格とかそういうこと以外でも、お兄ちゃんにとってお兄さんはカッコイイ人みたい。だから、土手に散歩へ来るとお兄さんがいないかなってそわそわする。だけど、お兄ちゃんはあんまり人に話しかけるのが得意じゃないから、わたしがちゃんとお兄さんのところまで案内してあげる。だってわたしは、おりこうさんだから。
「もしもよければ、いつか観にきてくれ。うちの劇団は、四つの組ごとに特色があるから、自分に合うものを選びやすいと思う」
 落ち着いた声で言ったあと、わたしへ視線を向けてお兄さんはちょっとだけ笑った。やさしくわたしの毛を撫でて、少し楽しそうに。
「舞台で犬を演じた組もあるしな。気に入ったものが見つかるかもしれない」
 お兄ちゃんはその言葉に、強い声で「はい!」ってうなずいた。