「プレゼント・レッスン」月岡紬:家庭教師先の保護者(40代・会社員)




 妻に花を買おうと思った。特別何かの記念日というわけじゃないが、理由がなくても花を贈るのは悪いことではない、らしい。
 最近家でよく花の話題が出てくるような気がする、と言ったら今花屋のドラマが流行っているのだと職場の若手が教えてくれた。その流れで、花を贈るには特別な理由がなくてもいいのだと聞いたのだ。
 ちょっとしたお菓子なんかを買って帰ることなら、たびたびある。駅構内だとかで出店している店のケーキだとかプリンだとかはやたらと美味しそうなのだ。ただ、それはどちらかというと子供たちが喜ぶから、という面が強い。もちろん妻も喜んではくれるが、子供たちのついでにというところもある。
 だから、もっときちんと妻へ向けて、という意味で花を贈るのもいいんじゃないだろうか、と思った。
 一体どうしたのかと驚かれるとは思うが、決して蔑ろにはされない、はずだ。万が一不機嫌そうな気配を感じたら、早急にこれまでの行いを振り返らなくてはならない。そういうバロメーターに花を使うのもいかがなものかとは思うが、こういった確認というのは肝要だ。
 気づかない間に、妻の中で何らかのメーターが蓄積されている可能性はある。自分自身をことさらいい夫だとは思わないが、できる限りのことはしてきたつもりだ。忙しい時は家のことを任せきりにしがちなこともあったものの、子供たちのことは二人で相談しながら決めてきた。決して妻に丸投げにはしなかったつもりだ。
 ただ、それはあくまでこちら側の評価であって、妻の真意は別の所にあるかもしれない。その辺りがもしかしたらわかるかもしれない――という理由をつけてはいるものの、結局の所単に恥ずかしいだけなんだろうということは自分でもわかっている。
 結婚して二人の子供にも恵まれた。息子はもうすぐ大学受験で、それが終われば次の年には娘の高校受験だ。これからますますお金もかかるし、会社でも責任がより重くなる。ローンもあるし、これまで以上に仕事に励むつもりだ。ただ、それができるのは妻が家のことを引き受けてくれているからでもある。これからもう一山を超えるためにも、妻に今までのねぎらいを伝えるのは決して悪い選択ではないはずだ。
 本当は、素直に「いつもありがとう」と言えばいいし、その気持ちを込めて花を贈ればいい。だけれど、何だか気恥ずかしくて妻の気持ちを確かめるため、なんて言い訳をしている。
 そんなことを考えつつ、事前に調べた花屋の前までやって来た。会社の帰りでも寄れるよう、遅い時間まで開いている花屋で、日常のちょっとしたシーンでの利用もうたっているから、特別な日ではなくても花束は作ってくれるはずだ。
 あとは店内に入って、花を選べばいい。勝手がわからなければ、店員に聞けばいいというアドバイスも調べた時に知った。何はともあれ、ひとまず店へ入らなくてはいけない。
 そう思うものの、何だかお洒落な花屋に気後れしてしまう。「生花店」というより「フラワーショップ」という雰囲気の店だ。写真映りが良さそうだし、こんなくたびれたスーツ姿の人間は場違いのような気がする。
 そもそも、花を買いに来るという経験がほとんどないのだ。業務で花が必要なら総務課に頼めばいいし、親戚関係なら妻が手配してくれる。いざ自分で花屋に足を運ぶなんてことは初めてで、なかなか一歩が踏み出せない。
 入口の前でうろうろしながら、このままでは完全にただの不審者になってしまう、と焦っていた時だ。遠慮がちに後ろから声を掛けられる。とっさに振り返って、思わず叫んだ。
「月岡先生!?」
「ああ、人違いかと思ったんですが――よかったです。こんばんは」
 柔和な笑みで立っていたのは、息子の家庭教師を務めてくれている月岡先生だった。
 いつでもおだやかな人で、物腰も丁寧だ。うちの息子は小生意気なところもあるので、果たしてちゃんと教えられるのだろうかと密かに心配していたものの、月岡先生はその辺りの手綱を握るのも上手いらしい。やさしいだけではなく、時には厳しくも接しながら、息子の意欲を引き出してくれているので、大変ありがたく思っている。月岡先生に家庭教師を頼んでから、息子の成績も上がっているので娘の家庭教師もお願いしたい、と妻とよく話している。
 月岡先生に「いつもお世話になっています」と頭を下げると、「いえ、そんなことは」やわらかく首を振る。息子が意欲的に勉強に取り組んでくれるからで、自分は大したことをしていないのだ、と謙遜する。
 それから、息子の勉強状況について簡単に話をしたあと、一体どうしたのかと尋ねられるので、現状について簡単に説明した。月岡先生は聞き上手なので、気負うことなくするりと口にすることができた。
「店員さんに聞くにしても、何をどうすればいいかもわからないですし、そもそも店へ入るにも気後れしてしまって」
「なるほど……。イメージと予算を伝えればすてきなブーケを作ってくれると思いますよ」
 月岡先生はにっこり笑ってから「ここは品ぞろえも豊富ですし、ブーケやアレンジメントが得意な方がそろっていますし」と続ける。どうやらこの店のことをよく知っているらしいな、と思うのと同時に「そういえば」と頭にひらめくものがあった。妻や息子の話から、思い当たることがあったのだ。
「月岡先生は花に詳しいんでしたね」
 確か花を育てるのが趣味で、花の名前もよく知っているしどう育てればいいのかについても詳しい、という話を聞いた気がした。月岡先生は「そこまででは」と首を振りつつも、「花が好きなんです」と笑っているから、詳しいというのはあながち間違ってはいないのだろう。
「もしよければ、妻に贈る花を選んでもらえませんか。月岡先生が選んだなら間違いはないでしょう」
 恐らく店員に頼めばいいのだろうとは思った。ただ、店へ入ることに気後れしているのが現状だ。店員に一から説明するよりも、顔見知りの月岡先生に花を決めてもらえる方が気持ちは楽だった。
 懇願をにじませて言えば、月岡先生は少しだけ驚いたような顔をした。それから、何かを考え込むような沈黙を流したあと、にっこり笑った。
「せっかくですし、ご自分で選んだ方が奥さんも喜ばれると思いますよ」
 やわらかながら力強い笑顔で、やんわりと、しかしはっきりと、自分で選んでください、というニュアンスを言外に告げられる。その笑顔に、恐らくこういう風に息子へ接しているんだろうな、と思った。やさしくおだやかに、しかし譲れない所は引かないという意志で。
「――ただ、アドバイスでしたら力になれると思います。お一人なら気後れしてしまっても、二人なら少しは気が楽になりませんか?」
 口元にやわらかい笑みを浮かべて、月岡先生は言った。一人で花を選ぶにしても店員へ聞くにしても、そもそも店へ入ることにためらっているのだ、と知っている。だからこそ、月岡先生は自分も一緒に店へ入ろうと提案してくれていた。
 確かに、知り合いかつ花に詳しい人が近くにいるのは心強い。月岡先生はお洒落な花屋も似合うし、あまり気後れせずに済むような気はした。
 ただ、そちらの方が面倒ではないかと思った。何せ花を選び終わらなければ、いつまで経っても解放されない。店員に任せるか、いっそ月岡先生が自分で選んだ方がよっぽど早く終わる。
 それなのに、月岡先生は当たり前の顔で提案する。妻に贈る花を選ぶためのアドバイスをしようと、気後れしないで済むよう一緒に店へ入ろうと。
「すてきな花を選びましょうね」
 晴れやかなやさしい笑顔で、そう言うから。ああ、月岡先生は本当に花が好きで、花を贈りたいという人間の気持ちを、真っ直ぐ汲んでくれるんだな、と思う。
 こんな人の育てた花は、きっととてもきれいなんだろう。いつか月岡先生が育てた花を見てみたいものだ、と思いながら「はい」とうなずいた。