「ムーンライトナイト」斑鳩三角:町内の野良猫
大きな月が出ている。こんな夜は、あの子に会いに行こう。
家の後ろや塀の上を選んで歩いた。人間と会わなくていいようなルートなら、よく知っている。
人がいっぱいいるところは、あんまり好きじゃない。餌をくれる人がいるような場所はいいけど、騒がしい場所はなるべく避けるようにしてる。特に夜になると、人の多い場所は危ないことが多いんだ。お酒を飲んだ人間は、ボクを見て餌をくれることもあるけど、反対に声を荒げたりあっちへ行けって追いやられたりすることもある。
そういう人間にはあんまり近づきたくないから、夜は人を避けて移動する。庭を通って塀の上に飛び乗って、音を立てないように歩いた。ボクの毛は暗い色だから、夜に紛れることも得意だ。誰にも見つからないようにって気をつけながら、いつもの道を通る。
この街にはいろんな道がある。どこを通ればどこに着くのか、ボクはよく知ってる。餌をもらえる場所はもちろん、人目を避けて休めるところだとか、みんなで集まって情報交換する場所とか、この街で生きていくには知らなきゃいけないところがたくさんある。それにつながる道は、とても大事だし近道はあんまり他のやつには教えない。自分だけの、特別な道を知ってるかどうかは、追いかけられた時なんかはすごく大切なんだ。
ボクはこの街で生まれたわけじゃない。他の所から流れ着いて、今はここで暮らしている。この街は猫が生きやすいって評判だから、結構いろんなところにボクみたいなのがいる。生まれつきここで暮らしてる猫と違うから、情報交換は特に大切にしてるし、困った時は助けあうこともある。流れ者同士だからこそ、そういうのが必要になるってわかってるんだ。
猫は群れて行動しないし、自分だけの世界で生きてる、なんて言われるけど。実際それは間違ってないし、別に一緒に行動するとかはないけど。だからって、必ず一匹ってわけでもない。大体、そうでなかったらボクはここまで大きくなってないと思う。
この街に流れ着いてから、ボクの面倒を見てくれたのは一匹の老猫だった。やっぱり同じように流れ着いてから、長くここで暮らしていたらしい。家族がいるわけでもなかったからなのか、年を取ってからの気まぐれだったのか。とにかくボクはその老猫――ジイサンに面倒を見てもらった。とはいっても、ボクは一応子猫ではなかったから、餌は取れたし育ててもらったってわけでもないんだけど。
ジイサンはボクに、餌場とか抜け道とかをいくつか教えてくれた。大通りは人がいっぱいいるけどあんまり餌はもらえない。昼間の裏通りの方がいい。夜になると危ないから、あまり近づくな。狙い目の公園は、毎日巡回すること。いざという時に逃げ込める場所はいくつかあるから、必ず覚えておく。
そういう諸々を教えてもらって、ボクはこの街で生きてきた。ジイサンのおかげで、だいぶ生きやすくなったのは確かだ。だからってわけじゃないけど、ボクはジイサンの教えはきちんと守ることにしている。
月明かりに照らされながらたくさんの家の間を通り抜けて、大きな家に到着。ここは、ジイサンの教えの一つ。もしも本当に緊急事態が起きたら、ここへ駆け込むこと。この場所なら追い出されることはないし、運がよければ宿になるし餌ももらえる。人間は多いけど、追い回したり乱暴にしたりする人間はいない。
勝手はよくわかっている。塀から木を伝って、ひさしや手すり、窓枠と順調に登って屋根の上に到着。明るい月の下には、やっぱりあの子がいた。寒くなってきてるから、ちゃんと上着を着ててよかった。
ボクは静かに近づいて、座るあの子の隣に腰掛ける。少し垂れた目、青っぽい髪、笑うと見える牙みたいな歯。人間だけど、何となくボクたちに似ている子。
「あーいらっしゃ~い。今日もさんかくだねぇ」
すぐボクに気づいて、そんなことを言う。この子は、さんかくがとても好きだ。「さんかく」というのは誉め言葉と同じだとわかっているから、にゃう、と答えた。褒められたらお礼を言うのは当然だ。
「ううん、オレこそいつもありがと~」
にこにこしながらそう言って、ボクの方を見る。やさしい目をして「一緒にいてくれてうれしい」と言うから、もう一度にゃあ、と鳴いた。これは、別に大したことはしてないよ、という意味。普通の人間ならよくわからないだろうけど、この子は違う。
「やさしいねぇ。でも、オレがうれしいからいいんだよ」
ちゃんとボクの言葉を理解して、そんな風に返した。最初は偶然かと思ってたけど、それは違うのだとジイサンに教えられた。
いくつもの場所やルートを教える内の一つとして、ここを訪れた時。ジイサンはこの子に向かって、ボクのことを紹介した。人間相手にそんなことを言ったって、ただにゃーにゃー鳴いてるとしか思われないのに、何言ってるんだろう。呆れつつ聞いてたら、この子はボクを真っ直ぐ見て言ったのだ。
――遠いところから来たんだねぇ。あいさつに来てくれてありがと~。
にこにこ言って、ボクが遠くからこの街へ来たことも、ジイサンが紹介するためにやってきたってこともちゃんと理解していたのだ。それから、よくわからないものをくれたけど、どうやら食べ物だったらしい。ジイサンが食べてたから、ボクも一緒に食べた。
帰り道、あの子はボクたちの言葉がわかるのだと教えられた。ジイサンはあの子のことをもっと小さい頃から知っているようで、お互い顔見知りらしい。とてもやさしい子なのだと何度もボクに言っていたし、それが本当のことだと今はボクもよくわかっている。
ちなみに、ここにいる人間はこの子以外にもボクたちにやさしいし、たぶんボクたちの言ってることも何となく理解できる。だから、何かあったらここに駆け込むように、と言われているのだ。お腹が空いてたら何か用意してもらえるし、天気がひどく荒れた時は部屋だって貸してくれる。もしも人間の手助けがいるとしたら、的確に助けを求められる。
だから、この場所は猫たちの緊急避難場所だ。縄張りも主張しないし、極力ここではケンカもしない。そういうルールが何となく決まっていた。
とはいっても、ボクは別に緊急事態じゃなくたって、ここにやって来る。理由は一つで、この子に会うためだ。
ぼんやり月を見ている隣で、ボクも月を見る。自然と尻尾がゆらゆら動く。こんな風に並んで月を見るのがボクは案外好きだ。この子とそれからジイサンと一緒に、月を見ていたことを思い出す。
誰も何も言わない。ただ静かに同じ場所にいる。そのままここが寝床になることもあるし、別の場所へ移動することもある。そういう時、この子は「またね」と言うから、ボクとジイサンはにゃああ、と答えて挨拶をした。
その時のことを思い出すと何だか不思議な気持ちになる。あの頃と今はほとんど変わらないけど、ここにはもうジイサンがいない。
いつもの場所にジイサンがいなかった時点で、そういうことなんだろうと思った。近頃めっきり体力もなくなっていたし、ついにその日が来たんだと思った。元気になったらまた出てくるはずだけど、結局今日までジイサンは姿を見せなかった。
だからボクは、ジイサンとの約束を守らなくちゃな、と思っている。別に頼んだわけじゃないけど、面倒を見てもらったのは事実だし、猫だって恩くらい感じるのだ。それに、ボクだっておんなじことを思っている。
いろんなことを教えてくれたジイサン。その内の一つとしてこの子のことも教えてもらったけど、ジイサンはずっとこの子のことを気にしていた。
やさしくて、ずっと一人ぼっちだったあの子には、新しい仲間ができた。だからもう二度と寂しい思いをしないようにって。ずっと近くで見守っていてほしいなんて、頼まれなくたってそうするつもりだから。月の明るい晩には、この子へ会いに来るのだ。