一億光年の恋 04話


 見送りは三角と監督だけだった。
 他の団員たちの申し出はやんわり断って、寮を出る際の見送りはこの二人だけにしてほしいと頼んだ。誰もがやさしい心で見守っていてくれることはわかっていた。だけれど、今の自分には上手くそれを受け取れないということを、天馬は理解していた。
 そそがれるまなざしや、心からの気遣いは嫌でも一成の不在を思い知らされる。MANKAI寮という場所でそれを突きつけられることは、思いの外堪えたのだ。それは恐らく、他の夏組も同じだった。だから、見送りは夏組と監督だけで、他の団員はいなかった。一人ずつ見送った天馬も、今日ついにMANKAI寮を出ていく。

「――三角」

 ぼんやりとした様子で立っている三角の名前を呼べば、うっすらと笑みを浮かべて天馬を見つめる。何かを言ったわけではない。それでも、三角は天馬の言いたいことを理解したのだろう。

「大丈夫だよ、てんま。オレちゃんと、ここにいる。だから、大丈夫」

 寮を出て行く誰に対しても、三角は同じ言葉を告げていた。ずっとここにいるから、だからどこへ行っても大丈夫だと。一旦寮を離れる決断をした全員に向けて、三角は言ったのだ。





* * *





 寮を離れるということは、葬儀の前から決まっていた。

 事件性があることから、一成の遺体はすぐに家には戻らない。そのため、葬儀までは宙ぶらりんの状態のままMANKAI寮で過ごしていた。寮内の空気は重く、人は多くいてもやけに静かだった。
 それでも、一成が大切にした場所だ。カンパニーのメンバーが心から力になろうとしてくれていることは、夏組の誰もが理解していた。今すぐに立ち直れないとしても、少しずつ歩き出せる日が来るはずだと思っていた。この場所でゆっくりと傷が癒えていくのを待つのだと思っていた。
 だけれど、恐らくそうするには、この場所はあまりにも思い出が多すぎた。失った美しいものの面影が、あちこちにありすぎた。

 最初は椋の異変だった。

 夏組は一人の不在を埋めるように、身を寄せ合って過ごすことが常だった。眠る時も部屋に戻らず、レッスン室に布団を持ち込んで同じ時間を分かち合った。なくしたものの大きさは、五人で分けなければきっと抱えていられなかったから。
 そんな風に過ごしていた時、椋が「必要なものがあるから」と自分の部屋に戻った。それ自体は当然有り得ることだったから、素直にその背を見送ったのだけれど。
 中々戻って来ない椋に、何か探し物でもしているのだろうか、様子を見に行ったほうがいいんじゃないか、なんて言い合っていると、東に伴われて椋が帰ってきたのだ。顔面を蒼白にして、明らかに恐慌を来たした表情で。

(202号室の前で立ち尽くしていたよ。あんまり思いつめた顔をしているから、連れてきたんだけど――扉が開けられないみたいなんだ)

 東は少しだけ困ったような顔をして、天馬に詳細を告げた。部屋から出たところで、立ち尽くす椋を見つけた。どうしたのかと尋ねれば、ほとんどパニック状態になった椋が言ったのだ。「どうしても、扉が開けられないんです」と。
 どうにか椋を落ち着かせて、東や天馬は詳しい話を聞いた。ぽつぽつと落とされる言葉を拾い集めて、何が起きたのかを理解する。

 椋は自分の部屋に戻ろうとして、閉められた扉に手を掛けて、そこで固まってしまった。この扉を開けても、一成はいない。絶対に一成はいない。その事実を、唐突に思い知ってしまった。
 今までだって、一成より先に帰ってくれば一人だった。だけれど、この不在は意味が違う。待っていれば、いつか一成は戻ってくるのが当然だった。だけれど、二度と一成は戻ってこない。この不在は永遠だ。扉を開ければ。一成のいない現実が、絶対に戻ってはこない現実が、決定的になってしまう。
 恐らく椋の中で、その思考回路が一瞬で成り立ってしまった。強固な回路となってこびりついてしまった。だから椋は、扉が開けられない。
 202号室だけではなかった。その先に一成がいない現実を突きつけられることを恐れて、扉を開くという行為そのものを心が拒む。結果として、身の回りにある扉の全てを開けることができなくなってしまった。

 恐らくそれが発端だった。どうにかつなぎとめていた平穏だったのだ。一つが崩れてしまえば、崩壊するのははやかった。ぼろぼろと、必死で支えていた均衡はいともたやすくバランスを崩していく。

 幸の様子がおかしいと言ったのは太一だ。
 デザイン画を描けないのは、今の状況なら当然だと言える。ただ、幸はデザインを描いていないとしても趣味の一環として裁縫をしたり、ちょっとした小物を作ったりすることが常だった。
 しかし、幸はまったく裁縫道具を手にしていないと言う。それだけなら、珍しいことがあるとしても気分ではないと言えるかもしれない。
 だけれど、決定的におかしかったのは、久しぶりに何かを作る、と言った幸が布の裁断を全て太一に任せたことだった。太一も少しずつ腕を上げているけれど、幸の指導が入ることが常だった。
 それなのにどうして、と太一は尋ねた。これくらい馬鹿犬もできるようになったでしょ、と答える声はいつもの通りに聞こえたけれど、わずかに震えているのを太一は聞き逃さない。同時に太一は気づいてしまった。

(天チャン。幸チャン、たぶん、ハサミが持てないんだ)

 思い返してみれば、幸はハサミ以外に包丁やペンの類も避けようとしていることに太一は気づく。共通点は恐らく、先端の尖ったもの。突き刺せば武器にもなる類のものたち。
 そう考えれば、裁縫道具を手にしない理由も理解できた。ハサミや針を使う裁縫をできるはずがない。
 どうしてなのか、明確な理由まではわからない。だけれど予想はついた。ハサミや針、包丁やペン。尖った先端を持つそれらは日常生活で重宝されるけれど、同時に人の体を傷つけることもできる。肉体に突き刺せば赤い血が流れていく。何を連想するのか、太一とて理解できる。
 きっと幸は、そんな自分を許せない。大切な相棒たる裁縫道具を前にして思い浮かぶものが、血にまみれた凶器だなんてこと、幸にとってはとんでもない侮辱だろう。
 だけれど、どうしたって、幸の頭には思い浮かんでしまうのだ。体中を刺されて、血だらけで絶命した大切な一人。これから先も共に過ごすはずだった、大事な仲間の最期の姿を思い浮かべてしまうのだ。

 それは恐らく、九門も同じだった。
 九門は一成の死を知って以降、夏組と過ごす以外は十座にくっついている。雛鳥のように十座のあとをついて回るのは、どうにか己を支えようとしての行動だということを誰もが理解していた。
 十座は椋と九門のことを殊の外気にしている。だから、椋や九門が元気になれることがあれば何でもしてやりたいと思って、椋が好きな少女漫画のために本屋へ寄ったり九門の好きな球団のグッズを探したり、あれこれ動き回っていた。
 その一つとして、九門が好きな演劇の映像作品でも見ようと持ち掛けた。すると九門が「見たい」と言ったのは、新生秋組旗揚げ公演『なんて素敵にピカレスク』だった。十座演じるランスキーが大好きだという九門らしい答えだろう。
 十座はもちろん快くうなずいて、談話室のテレビを借りて懐かしい公演を九門とともに見始める。少しでもいいから弟の力になってくれればいいと思って、十座はずっと九門の様子を見つめていた。だからなのだろう。
 ワクワクとした表情で画面へ視線を注いでいた九門の調子が、次第におかしくなっていくことにすぐ気がついたは。
 一体何がきっかけだったのか、十座にはわからなかった。だけれど、九門の顔から血の気が失せていき、苦しそうに呼吸を始めたことだけが全てだった。
 慌てた様子の十座に、周囲の人間も九門の異変にすぐ気がついた。すぐさま適切な介抱を行ったことで、大事には至らずに済んだのだけれど。

(血が出るシーンだとか、暴力的な場面がだめみてえなんだ)

 十座は、天馬に向かってそう言葉を吐き出した。
 あれから、九門と共にいくつかの演劇を見た。MANKAIカンパニーの公演以外にも、いくつかの舞台を見てわかったのは、血を連想させるような場面にさしかかると九門の体が拒絶反応を示すということだった。
 どうしてなのか、理由なんか聞かなくてもわかる。わかってしまう。
 直接見たわけではない。だけれど、情報として、事実として九門は知っている。
 一成の最期の姿。全身を刺されて、血の海に横たわっていた。徹底的な暴力で蹂躙され、命を奪われた。大切だった。大事だった。いつだって笑顔でいてくれた、一成の最期の姿を思い出してしまうのだ。

 少しずつ、おかしくなっていく。一成がいなくなってから、どうにかつないできたものたちが、ゆるやかに崩壊していく。天馬にはそれがたまらなく恐ろしかったけれど、耐えているしかなかった。

 お前ならどうする、と天馬は一成に尋ねる。胸ポケットにしまっているスマートフォンをなぞって、そこについているストラップを撫でて。
 答えはないと知っていても、そうやって自分を奮い立たせるしかなかった。まだ立っていられる。まだオレは、ちゃんとリーダーでいられる。すがりつきながら、薄氷を踏んで立っている。
 しかしそれも、長くは続かなかった。少しずつ歯車が狂っていくような日常は、ゆっくりと、だけれど確実に崩壊へ向かっていた。

 三角はいつにも増してぼんやりとしていることが増えた。日課のサンカク探しには出かけるものの、あまり覇気がない。
 ただ、サンカク探しを止めてしまうわけではなかったことに、カンパニーメンバーは密かにほっとしていた。三角はちゃんと今まで通りなのだと思えたからだ。
 そんな三角に、「ストリートACTに行かない?」と声を掛けたのは紬だった。
 一成の事件はそれなりに騒ぎになった。エスカレートした通り魔事件ということ自体がセンセーショナルだったし、被害者である一成が何かと話題性のある人間だったからだろう。
 マスコミなどの目もあり、公演の予定はひとまず未定になっている。各組練習は行っているものの、さすがに夏組は練習ができる状態ではない。
 だから、三角がまったく芝居をしていないことに気づいて、紬が声を掛けたのだ。芝居をすることは三角にとって、力になるだろうと思ったからこそ。
 三角は少しだけ考えたあと、ぱっと笑って「うん!」とうなずいた。その様子に天馬はほっとするのと同時に、もっと早く気づいてやればよかったな、と思う。ストリートACTでなくてもいい。エチュードだってよかったのだ。一成ならすぐに気づいたかもしれないけれど。
 これで三角が元気になってくれればいいと思いながら、天馬は二人を送り出した。しかし、それはとんだ思い違いだったのだと、血相を変えて戻ってきた紬の様子で気づくことになる。

(三角くん、ストリートACTが終わっても役から戻ってこないんだ)

 慌てた様子の紬が言う通り、三角は二人のストリートACTで演じた生真面目な学者然としていた。自分を三角として認識はしていたけれど、その性格はあくまでも真面目で融通が利かない。サンカクに反応することもなければ、夏組に対しても何らかの感情を抱いているわけではないようだった。
 卓越した演技力を持つ三角だからこそ、その姿はまったくの別人にしか見えなかった。
 斑鳩三角がどこにもいない。一成だけではなく、三角までどこかに行ってしまったら。その可能性に夏組は心底ぞっとして、自分たちを冷淡に見つめる三角を前に立ち尽くしていた。
 結局、半日経ったところで自然と三角は役から抜けた。しかし、その後事情を知らない団員にエチュードに誘われて応じた三角は、その日一日役から戻ってこなかった。
 最初は半日。次は一日。役が抜けるまでの時間が長くなっている。このままでは、三角はいずれ何かの役を演じたままになるかもしれない。斑鳩三角という存在を消したまま。
 監督はすぐに、三角に対してしばらく芝居をお休みにしよう、と提案した。思いの外素直に三角は「そうする」とうなずいたし、団員たちにも周知はした。
 だから、しばらくは大丈夫だと判断したのだけれど、これが単なる応急処置でしかないこともよくわかっていた。恒久的な解決にはほど遠い。だけれど、どうすればいいかなんて誰にもわからなかった。

 少しずつ袋小路に追い込まれていくようだった。他の道が塞がれて、崩壊するための道をひたすらに歩かされている。そんな気持ちのまま、天馬は日々を過ごしていた。
 ここに一成がいてくれたら、きっと笑ってくれるのに。だいじょぶだよん、平気だって!なんて、明るく笑ってくれたのに。スマートフォンをお守りのように握りしめた天馬は、二度と答えない一成に向かって、何度も尋ねた。
 お前ならどうする。お前ならきっとみんなを笑顔にしてやれたのに。オレじゃだめだ。オレじゃあいつらを笑顔にしてやれない。
 椋も、幸も、九門も、三角も、少しずつおかしくなっていた。一成がいない現実がおかしいのだ。調子が狂うなんて当然だと思ったし、それは至極当たり前の結論のようにも思えた。だから、天馬は自分の歯車が狂っていくことも、ただ冷淡に受け止めていた。

 最初がどこだったのかなんて、天馬はもう覚えていない。
 ただ、いつもならすんなりと頭に入るはずの台本が上滑りしていく段階でおかしいとは思っていた。
 元々天馬は台本の覚えがはやい。最初に読んだ段階で、大まかな演技プランと一緒に台詞は大体覚えてしまう。だから台本が頭に入らないなんてことは初めだった。
 疲れているのだと思った。しばらく時間が経てば戻るだろうと思っていた。
 だけれど、戻るどころか状況は悪化していくばかりだった。最初は上滑りしていくだけで、時間はかかっても覚えられた。しかし、夏組の調子がおかしくなるのと呼応するように、天馬の歯車も狂っていった。
 気づけば台本が一切頭に残らなくなっていた。文字として読めば認識できる。それなのに、いざ頭の中から取り出そうとしても、言葉は何一つ思い浮かばない。真っ白の記憶がよみがえるだけで、まるで初めて舞台に立った時みたいだった。
 おかしいと思った。
 台本が一つも覚えられない。言葉も台詞も、確かに意味として理解できるのに、芝居として外に出そうとしした瞬間、全てがあとかたもなく消えてゆく。まるで芝居用の回路が全て閉ざされてしまったようだった。
 新しい映画の撮影が始まっていた。そのために、台本を覚えなくてはいけない。演技を、芝居をしなくてはいけない。それなのに、台本が覚えられない。芝居用の回路が錆びついて動かない。
 思う通りに動くはずだった体さえぎこちなくて、自分の芝居がどんな形をしていたかさえ、次第におぼろげになっていった。
 それでも、どうにか立っていなくてはと天馬は思ったのだ。
 少しずつおかしくなっていく全ての中で、自分だけは立っていなくては夏組がなくなってしまうような気がして。一成がいて、六人がそろっていた夏組が何もかも消えてしまうような気がして。それだけを胸に、ただ天馬は自分を奮い立たせていた。
 だけれど。通夜の晩、自分の思いを自覚した天馬はもう立っていられる気がしなかった。
 好きだった。特別だった。自覚した瞬間に失ってしまった大事なひと。その事実は、天馬の胸に抱えようもない大きな穴を空けた。
 ぽっかりと空いた深い穴に、少しずつ自分が飲み込まれていくのを、天馬はただぼんやりと感じていた。





* * *






 結局、葬儀が終わるのを待って三角以外の夏組は寮を出ることになった。椋や九門、幸の異変は家族にも伝わっていたし、事態が事態だ。子どもの様子を心配して、一旦家に戻ることを打診したのだ。
 当人たちもそれにうなずいたのは、寮という場所があまりにも一成との思い出が多すぎるのだと思い知ったからだろう。
 一人ずつ、天馬は三角や監督と共に夏組を見送った。そうして、最後に寮を出るのは天馬自身だ。

「三角。お前を一人にして、悪い」

 本当なら、天馬も寮に残るべきだと思った。だけれど、結局天馬は寮を出ることを選んだ。一成がいないという事実にどうしても耐えられなかったのだ。そこかしこに一成の気配を感じる場所はあまりにもやさしくて、綺麗で、残酷だった。
 いるはずの人がいないこと。振り返っても空虚が広がっていること。二度と戻らない全てをまざまざと思い知らされる。
 夏組のリーダーなんて名乗りながら、結局逃げ出す自分を天馬は嘲るしかなかった。なにがリーダーだ。夏組みんなを守ることもできないくせに。オレにはリーダーを名乗る資格なんて、初めからなかったんだ。
 自分への苛立ちと罵倒を抱えながら、それでも三角には言わなくてはならなかった。
 たった一人でここへ残してしまう。行く先がないという理由だとしても、夏組の誰もいない場所に、一成との思い出の色濃い場所に三角だけを置いていく。
 いくら恨まれても仕方がないと思った。三角はそんなことをしないとわかっていても。

「本当に悪いと思ってる。すまない」
「ううん。平気だよ、てんま」

 下げかけた頭を押しとどめて、三角は朗らかに言った。大丈夫だよ、とやさしい目をして続ける。

「ここにはカントクさんも、みんなもいっぱいいるし――オレは、ここでみんなを待ってる係!」

 みんな、というのは寮を出て行った夏組のことを指している。幸、椋、九門、それから天馬。彼らを三角はここで待つのだと言う。
 力強くうなずいたのは監督で、三角くんの言う通りここでみんなを待ってるからね、と告げる。

「大丈夫だよ。みんなが戻ってくるまで、ここでちゃんとオレが待ってる」

 朗らかでやさしい笑顔だ。三角はふわふわとして掴みどころがないし、放っておくと好きなことを始めてしまうから、手のかかる弟みたいな存在だ。だけれど、天馬はよく知っていた。
 三角はこうして、とても深いまなざしで天馬を見つめてくれること。一成と一緒に、夏組の最年長として当たり前みたいにみんなを守ろうとしてくれること。そういう人間だと知っていた。
 三角はにっこり笑った。両手でサンカクを作ると、穏やかに告げる。とてもやさしい声で、やわらかく抱きしめるみたいに。

「だからてんま、ただいまって言ってね」

 それは、いつかを祈る三角の願いだ。いつか、きっと天馬は帰ってくる。九門も、椋も、幸も帰ってくる。そしたら、三角は「おかえり」と言ってみんなを出迎える。
 そんないつかを祈る声に、天馬は「ああ」とうなずいた。叶うかどうかはわからない。それでも今、答える言葉はこれしかないと知っていたから。