一億光年の恋 05話
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天馬の行き先は、実家ではなかった。
一成の事件が騒ぎになった一端には、天馬の名前も関わっている。あの皇天馬と同じ劇団で、同じ夏組に所属している人物が被害者だ、ということでマスコミが大いに騒いでいた。そのため、天馬の実家にも取材陣が張り込んでいることは知っていた。
そんな場所では静養も難しいという判断で、今回天馬は皇家が持っている別荘の中でも、最も人との関わりを持たなくて済む場所へ赴くことになったのだ。
天馬の不調は、井川はもちろん両親も承知している。友人が殺されていつも通りでいられるわけもないし、加えて台本を覚えられず演技にも支障が出ている。
このまま仕事を続けることはとうてい無理だと判断して、皇事務所は公式に一ヶ月の静養を発表したのだ。
マスコミが散々騒いだので、一成と天馬が仲の良い友人であることは世間にも充分知られていた。そのため、天馬の静養は同情とともに受け入れられたし、その影響か撮影中の映画も一時休止という形を取ってくれることになっていた。
ありがたい、と天馬は思う。だけれど、心のどこかは平坦で、一ヶ月の静養で自分が再び演技をできるようになるのかもわからなかった。
焦る気持ちはある。だけれどそれすらも、どこか遠く感じられているのも事実だった。
「天馬くん、そろそろ着きますよ」
落ち着いた井川の声で、天馬は我に返った。MANKAI寮から件の別荘まで天馬を送るのは、いつもの通り井川の役目だった。
今回の件で、井川にも多くの心配をかけていることは天馬も理解している。「悪いな」と言えば、井川は「天馬くんのためですから」と首を振っていた。
恐らく井川は、努めていつも通りであろうとしてくれている。だから、普段と変わらない調子でそろそろ目的地に着くと告げたのだ。
天馬は窓の外へ向けていた視線をゆるゆると動かし、前方へ転じた。
車はすでに私有地の森に入っている。別荘とともに、皇家が買い取った森だ。特に境界線などは設けていないので、公園か何かだと思って入ってくる人間もいるらしい。
ただ、居住地である別荘は森の奥深くにあるので、相当強い意志を持って森を進んで来なければ別荘まで辿り着くことはできない。
舗装された道路を進んだかと思うと、前方に現れたのは立派な鉄柵だ。飾りが施されたそれは、西洋のおとぎ話に出てきそうな趣がある。
自動で開くようになっているのか、井川が何かを操作しているのか。わからないけれど、柵が勝手に開いて車はゆっくりと中へ入った。
周囲の木々はうっそうと茂っている。森に飲み込まれるような場所を、車は走った。木洩れ日がフロントガラスに落ちてまだら模様を作っている。その様子をぼんやり眺めていると、前方に瀟洒な洋館が現れた。煉瓦色の外壁と深緑の屋根を持つ、二階建ての建物だ。
重厚なつくりの玄関ポーチを正面に、左右対称に建物が広がっている。とはいっても、全体としてはこぢんまりとしているし、丸屋根の塔や飾りのついた窓は何だか玩具のようでもある。丁寧に手入れが行き届いており、よくできたドールハウスのようにも思えた。
幸や椋が好きそうだな、と天馬はぼんやり考える。三角がいたらサンカクを探し始めるだろうし、九門も案外こういう雰囲気は嫌いじゃない。一成は嬉しそうに写真を撮るだろう。
夏組のことを考えている間に、井川はためらうことなく玄関ポーチの前に車を停車する。そのタイミングで、中から人が出てきた。
えんじ色のベストに、カラーシャツを首元までしっかりと留めた男性だった。年齢は判然としないけれど、綺麗に整えられた白髪から考えて確かな年齢を重ねた人物だということがうかがえる。
細身ではあるけれど、足取りはしっかりしていた。井川のもとまで歩いてくると、何やら挨拶を交わしている。
「天馬くん。こちら、別荘の管理人さんです。ここから歩いて五分ほどのところに離れがありまして、ご夫婦で別荘を管理していらっしゃいます」
一通りの挨拶を終えた井川がそう言う。天馬は慌てて頭を下げた。管理人がいるとは聞いていたし、滞在中の天馬の世話をしてくれる人だとも教えられていた。
管理人は、落ち着いたテノールの声で「皇さんにはお世話になっていますので、天馬さんもくつろいで過ごせるよう尽力させていただきます」と笑った。
それから井川は、管理人といくつかの話をしてから天馬の荷物を預けて車で去っていった。他にも仕事があるのだから当然だろう。天馬は管理人にもう一度向き直り「世話になります」と頭を下げた。管理人は柔和な笑みをたたえて首を振る。
「皇さんには大変感謝していますし――それに、天馬さんは以前もここを訪れて気に入ってくださいましたからね。いらっしゃるのを楽しみにしていたんですよ」
そう言って玄関の扉を開くと、天馬を中へいざなった。
天馬を出迎えたのは、吹き抜けになっている玄関ホールだ。磨きこまれた床に、重厚な木材で作られた階段が二階まで伸びている。天井は高く、レトロなつりさげ型の照明が取りつけられていた。
「天馬さんもお聞きかと思いますが、ここは先々代が集めたアンティーク品を保管しています。元は住居だったのですが、ほとんど所蔵品のための家だったところです」
別荘を入手した経緯は、父親から聞いていた。
以前、天馬の父親が映画撮影で訪れた際にこの洋館をいたく気に入ったのだ。そこで購入の話を持ち掛けたところ、アンティーク品と建物の維持費の調達が難しくなっていたところだったので、管理人はその申し出を快く受け入れた。
ただ、アンティーク品は邪魔になるだろうから処分する心積もりだったのだけれど。天馬の父親は保管された品々も気に入っていたので、それも含めての購入の意志を伝えた。もちろん維持費も支払うし、そのまま別荘の管理人として夫婦を雇うことも約束した。
結果として、管理人夫婦は維持費の心配をすることもなく、働き口を失うこともなく、むしろ好待遇で迎え入れられた形になったので、天馬の父親に対して多大なる感謝をしているのだ。
「アンティーク品を収めた部屋は主に一階で、二階が客室になっています。天馬さんの部屋は、階段を上がって右手の中央――バルコニーのある部屋です。基本的にここでは靴を脱ぎませんので、必要があればスリッパなどもお持ちしましょう」
言いながら、管理人は階段のほうへ向かいかけるけれど。思い出した、といった顔で立ち止まると、玄関ホールを左へ向かった。飾りのついた重厚な扉を開く。
「こちらの部屋は、元々待合室だったのですが今はアンティーク品の収蔵場所ですね。この時計が、天馬さんはお気に入りでしたよ」
扉の先にあったのは、十五畳程度の部屋だった。ただ、部屋には壁沿いにガラス窓の棚、中央にはアンティークソファが置かれるなど、所狭しといった具合で物があふれているので、何だかやたらと小さな部屋にも見えた。
ごちゃごちゃしていて、よくわからないものがたくさんある。無意識に思ったのは、一成はこういう場所が好きそうだな、ということだった。
天馬は胸ポケットにしまったスマートフォンをそっとなでる。一成ならきっとこんな時、「これなに!? めっちゃテンアゲ!」なんて言って笑うんだろう。
何かを振り払うように、天馬はゆるく首を振った。そこで目に飛び込んだのは、窓の向かい側にある柱時計だった。
天馬の身長よりは低いものの、大型の時計だ。
文字盤は二重円になっていて、内側の円は銀河のような星空が広がっていた。外側の円には数字の代わりに星座モチーフの絵が描かれていて、この文字盤には天馬にも覚えがあった。
「――ああ、確かこの時計のネジを巻かせてもらってたな」
ぽつりと言葉をこぼす。よく覚えていたのは、この文字盤があったからだろう。
幼いころの天馬は、時計に広がる銀河と星座の絵がとても綺麗だと思ったのだ。管理人は天馬の言葉に小さく笑うと説明をしてくれた。
この時計は、大正時代に制作された。美術品的側面が大きいものの、実用にももちろん耐えられる。十五日巻といって十五日間隔でネジ巻きが必要で、適宜ネジを巻くのも管理人の仕事だった。
以前天馬が訪れたのは、ちょうとその時期だったので、ネジ巻きを任せたという経緯だったらしい。
「この部屋のものに興味を持ってくださいましたし、もしも今も気になるものがありましたら手に取ってくださって構いません。ここのものはそう古いものではないので、実際に使用できるものを置いてありますし、必要でしたら好きにお使いください」
そう言って、管理人は部屋をぐるりと見渡した。アンティーク品の並ぶ部屋ではあるけれど、博物館の陳列品ではないので実際に使用できるものたちがそろっているらしい。
管理人はそれだけ言うと、わずかに空気を変えて口を開いた。
「それでは部屋に案内しましょう。天馬さんがいらっしゃるということで部屋を整えてはいますが、足りないものがあれば申しつけてください。ただ、ここでは新聞やテレビなどの類がありません。新聞でしたら買い出しの際に購入することも可能ですが――」
「なくて構いません」
申し訳なさそうな顔の管理人に、天馬は答える。実際問題はなかった。そもそも、天馬はその話を事前に聞いていたし、だからこそこの場所を選んだとも言えるのだ。
管理人夫妻は、新聞も取っていないし、テレビも持っていない。仕事で必要ということでパソコンは使っているし、洋館に滞在する人のためにもデータ通信環境は整っている。ただ、私生活ではほとんどネットは使っておらず、唯一の情報源はラジオらしい。
世間と隔絶されたような生活をしていると聞いていた。天馬のことも情報として役者であることは知っているだろうけれど、出演作を見たことがあるかはわからない。
そんな風に過ごしているからこそ、管理人夫妻は一成の事件も知らないはずだ。もしかしたら、どこかで耳にはしているかもしれない。だけれど、あくまでもニュースの一つであり、天馬と結びつけて考えることはほとんどないという判断だ。
だから、天馬はここへ来た。ここでなら、管理人夫妻にとって天馬は単なる恩人の息子でしかない。通り魔事件の被害者である一成の友人でもないし、天馬は友人を亡くした存在でもない。
ここでなら、いたましい顔もされないし、気遣われることもない。一成の不在を突きつけられなくて済む。
単なる逃避だとわかっていても、天馬はそれを選んだのだ。
別荘では好きに過ごしてください、と言われていた。ただ、食事の時間だけは準備の関係から事前に決めている。もっとも、それすらも連絡さえすれば天馬の意志で変えていいと言う。
わざわざ変更したい理由もなかったので、最初に決めた通りの時間に夕食が用意された。洋館の一階には食堂があるので、食事はそこで取ることになっている。
必要であれば部屋へ持ってくることも可能らしいけれど、取りたててその必要はないと判断した。
給仕をしてくれたのは、管理人の奥さんだという女性だった。ふくよなか体躯に、ころころとした笑顔のよく似合う人だった。話が好きそうな雰囲気ではあったものの、天馬が会話を好まないことを察したのだろう。
何も言わず、丁寧に給仕することだけに努めてくれていた。食堂に置いてある小さなラジオからは、落ち着いた曲が流れて沈黙を埋めていた。
夕食のあとは、部屋に戻って時間を過ごした。
静養が終われば撮影が始まるはずの映画の台本は持ってきている。一応と思って開いてはいるものの、結局頭に残ることはなかった。
時間だけが過ぎていく。給仕を努めた管理人の奥さんも、用が済めば離れに戻っているはずだ。今この別荘に、天馬以外の人間はいない。
寮ではいつも誰かの気配を感じていたのに、ここに天馬は一人きりだ。
ロケや撮影の関係で寮を離れることもあるし、一人になることがまるでないわけではない。そんな時は大体夏組とLIMEをしていたけれど、今はそんなことも一切していない。それは寂しいことのようにも、安堵することのようにも思えた。
上滑りしていく文字をしばらく眺めていた天馬は、大きく息を吐き出すと台本を閉じた。覚えられない台本を開いたままでいても仕方ないと思ったし、頭が上手く働いていない自覚もあった。
ただ、このまま部屋で無為に時間を過ごすのもどうか、という気持ちもあったので気分転換代わりに部屋を出る。
特に行くあてもない。寮であれば、誰かが声を掛けてきて部屋に呼ばれたり談話室でテレビを見たりすることもあるけれど、今ここに天馬以外の人間はいないのだ。
別荘を出ても外には森が広がっているだけで、行くところもない。寮で過ごしていれば、ちょっとコンビニにでも行こうなんて話になったかもしれないけれど。
一成は、時々夜のコンビニに出かけていたな、と天馬は思う。
九門や三角や椋と一緒に、小腹空いちゃって!なんて言いながら、夕食のあとに出かけていく姿を覚えていた。散々食べたくせによく入るな、と幸ともども呆れて言えば「別腹だからねん」と笑っていた。
一成は美味しそうにものを食べる。一緒にいれば、何だか天馬の食欲まで増すような気持ちになったことを覚えている。
だからだろうか。一成がいなくなってからは、何かを食べたいという欲求がまるで湧いてこない。
必要だとは思うので食事は取るけれど、そもそも空腹を感じないのだ。用意された夕食も、あまり量は食べられていない。申し訳ないとは思うものの、どうしようもなかった。
部屋を出た天馬の足は、自然と階下へ向かっていた。
二階には、階段を挟んで左右に三つずつ、合計六つの客室があるだけだと聞いている。似たような部屋が並んでいるだけだろうし、鍵もかかっているらしい。時間をつぶすなら、中を見て回れる一階のほうがいいだろうと思っていた。
食堂以外に、応接室や図書室、アンティーク品を収めた部屋があると言ってたな、と思いながら天馬は階段を下った。
人気のない洋館は、映画の撮影に使われただけあって独特の雰囲気がある。加えて、まったく人気がないことと、年を経た器物が多く所蔵されていることがあいまって、幽霊が出てきても不思議ではないような空気が漂っていた。
常の天馬であればびくびくとしていただろうけれど、今の天馬は違う気持ちを抱いている。
幽霊でも出てくればいいのに、と思う。
もしも死んだ人間が形を持って現れるのなら。目の前に、どんな姿になってもいいから現れてくれるなら。そしたら、一成が出て来てくれるかもしれないのに。
天馬は胸ポケットの上から、スマートフォンに手を添えた。
あの夜からずっと、天馬は一成のことを考えている。
何をしていても、どんな時も、一成がここにいたら、と思う。
一成がここにいたらどうしただろう。一成がここにいたら笑ってくれただろうか。一成がいたら夏組はバラバラにならなかった。一成がいてくれたら。
お守りを握り締めるみたいに、天馬は何度も心で一成を呼んでいる。
だけれどその度に思い知るのは、決して答えが返らないという事実だ。
当たり前だとわかっている。一成はこの世のどこにもいない。炎に焼かれて灰になってしまった。楽しそうに笑うことも、名前を呼んでくれることも、天馬を見つけて顔を輝かせてくれることも、もう二度とない。
その現実に直面する度、天馬の胸は言いようもない痛みに貫かれる。
もっときちんと、守ってやればよかった。一人にしないよう気をつけていたとは言え、できることはもっとあったはずだ。カンパニーのメンバーがいるから大丈夫だと思ってしまっていた。他の誰でもなく天馬ができることは、きっともっとあったのに。
他人に頼ることが苦手だなんてよく知っていたのだ。それなら、呆れるくらいに何度も言えばよかった。
迷惑じゃない。お前を危険な目に遭わせたくないんだ。だからちゃんと頼れ。悪いなんて思うな。オレたちにお前を守らせてくれ。真剣にそう言えば、きっと一成は聞いてくれたのに。
そこまで思ったところで、天馬はぐっと唇を噛んだ。
そうして一成がきちんと言葉にしてくれたとして。果たしてオレには、一成の言葉を聞く資格があるのだろうか。一成の電話に出てやれなかったオレなのに。
胸ポケットにしまったスマートフォンには、あの夜の不在着信が残されている。
一成から電話のあった時刻は、撮影も終わって楽屋に戻っていた頃だ。
恐らく、天馬が肌身離さずスマートフォンを持っているような人間だったなら気づいた。楽屋に戻れば真っ先にスマートフォンを手に取るような、一成のようにこまめにスマートフォンをチェックするタイプだったなら、一成の電話にも出られたはずだった。
しかし天馬は何一つ気づくことなく、一成の言葉を聞いてやることができなかった。
一成は、天馬が電話に出られなかったことを恨むような人間ではない。だけれど、何よりも天馬自身が自分を許せないのだ。一成の言葉を聞いてやることができなかった自分が、どうしたって許せないままだ。
険しい顔をした天馬は、そこではっと我に返る。いつの間にか階段を下りきって、玄関ホールに辿り着いていた。無意識に足が動いて、玄関扉の前までやって来ていた。
このまま外に出たところで、するべきことも思いつかない。ひとまずは一階を歩いてみるか、と周囲を見渡したところで、飾りのついた重厚な扉が目に入った。
黒を基調としたオーク材の扉には、木彫りの牡鹿をメインにした装飾的な飾りが施されている。ドアノブは鈍く光る真鍮で、落ち着いた空気の中に豪奢な雰囲気を漂わせていた。
この先には、幼い天馬が気に入っていた振り子時計がある。秘密基地のような宝箱のような部屋が、天馬は好きだった。
一成が好きそうだ、と思ったことも後押ししたのだろう。特に行くあてもない天馬は、ドアノブに手を掛けて部屋に入った。
手探りで電気を点けると、飴色の光が部屋を満たす。
十五畳程度の部屋は、左手に窓が一つある。玄関と同じく南に面した窓で、レースのカーテンがかかっていた。
それ以外の壁にはガラス窓の戸棚が置かれていて、中にはアンティークカップやソーサー、陶器の置物や懐中時計が品よく並んでいる。
戸棚以外にも、腰の高さほどのテーブルの上にはラッパ型の蓄音機、ローチェストの上には花の形をしたシェードのランプが置かれている。
部屋の中央部分には、ビロードの座面を持つアンティークソファが二つ向かい合っていて、その間には机が一つ置いてある。
天馬は少しだけ考えてから、その内の一つに座った。何となく疲れたような気もしたし、この部屋にいれば気がまぎれるかもしれないと思ったからだ。
視線が向かうのは、真正面にある柱時計だ。
床置きの柱時計は黒檀製で、真鍮の振り子を揺らしている。青と黒のグラデーションで描かれる星空のような文字盤は美しく、それを囲む星座の絵も精緻で繊細な雰囲気がある。
正しく時間を刻んでいるようで、二十一時を過ぎた時刻を指している。よく見れば、台座部分には男女のシルエットと花の姿が彫られていた。
天馬はぼんやりと柱時計を眺めている。振り子の音を聞きながら、何かを考えようと思うけれど上手くまとまらなかった。
このままでいいはずがないというのはわかっていた。頭に入らない台本だとか、芝居のできない自分自身だとか。考えなくてはいけないことはたくさんあったし、行動を起こす必要があるのだとわかっていた。
だけれど、動き出そうという意志が、どうしたって出てこなかった。
胸に空いた穴から、意志だとか決意だとか、そういう全てがこぼれ落ちていってしまったようだ。自分を奮い立たせていたものたちが、全てどこか遠くに感じられた。
このままでいいはずがない。だけれど同時に、何もかもを投げ出してしまいたいと思う。ふさがらない穴をどうすればいいのかも、どうしたいのかも、よくわからなくなっていた。
こんな時、一成ならどうするだろう。とりあえず動いてみると言うだろうか。意志の有無に関わらず、とりあえずはやってみよ!なんて言って、腕を取って連れ出すのかもしれない。
助けてと言うことは苦手なくせに、誰かを助けるためなら一歩を踏み出せる人間だからこそ。オレも一緒に一歩飛んじゃうよん!なんて笑ってくれるのかもしれない。
一成の姿を思い描いた天馬は、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
一成が「テンテンもつけよ!」と言って勝手につけていたストラップも一緒に出てくる。羊毛フェルトで作られたライオンだ。
おまけでもらったものだから、作りはだいぶ簡素だった。天馬の趣味ではないものの、このシリーズのストラップは夏組全員つけているので、そのままにしていた。
スリープモードから回復させれば、見慣れた画面が目に入る。談話室で夏組の六人が笑っている写真で、監督が撮ってくれた。ついこの前までは当たり前だった、今ではこの上もない奇跡みたいな写真だ。天馬はしばらく画面をじっと眺めていた。
我に返った天馬は、アンテナがちゃんと立っていることを確認して、電波はきちんと入っているんだな、と思う。ニュース画面が流れて、目の端で文章を読む。彗星という文字を読み取り、自然と一成を思い浮かべた。
(秋くらいには大きな彗星が見えるんだよん。みんなで見よーね!)
花火をしながら口にした約束は、ほんど確定的な叶えられる未来だったはずなのに。
秋になって彗星が見えるようになったころには、一成はいなくなって、夏組はバラバラになってしまった。こんな未来は誰も予想していなかった。こんなに酷い未来なんて。
一成が見ようと言っていたのはなんて彗星だったろうか。どこで見えるんだろうか。一成は、どんなことを考えて彗星を見ようと言ったんだろう。
そう思う天馬は、流れるような動作でスマートフォンを操作した。何度も繰り返した動きだ。発信履歴の一番上を選ぶと、通話ボタンを押す。発信先は――三好一成。
誰にも言ったことはないから、誰も知らない。天馬が毎日、つながらない電話をかけていることは。
何度呼んだって答えてくれないことはわかっている。いくら電話をしたところでつながらないことだって、充分知っている。それでも、天馬は一成がいなくなった日からずっとこうして電話をかけていた。
どんな意味があるのかは、天馬にだってわからない。もしかしたら、あの夜電話に出られなかった贖罪なのかもしれない。もしかしたら、届かなくてもつながらなくても、ただ真っ直ぐと向かう心が形になっただけなのかもしれない。
わからなくても、天馬は毎日一成に電話をかけていた。それだけが唯一、天馬の意志と呼べるものだった。
一成のスマートフォンに電話を掛けても、呼び出し音すら鳴らない。現在使われていない旨のアナウンスが流れるだけだ。
毎日そのアナウンスを聞いて電話を切る、ということを天馬は繰り返している。だからすっかり覚えてしまった。電話をかければすぐに切り替わるタイミングも、アナウンスの言葉も声の抑揚も。思った天馬は、そこで違和感に気づく。
呼び出し音が鳴っている。
いつもなら、発信ボタンを押すとすぐにアナウンスに切り替わるのに。スマートフォンからは、間違いようもなく相手を呼び出す音が聞こえている。
発信相手を間違ったのだろうか、と天馬は耳からスマートフォンを離して画面を確認した。しかし、発信中の画面に表示されるのは「三好一成」の文字。他の誰でもなく、天馬が毎日電話を掛けていた相手だ。
新しく番号が割り振られたのか。電話会社で何らかの変更があったのか。いくつもの可能性が浮かんでは消えて、天馬は固まったまま呼び出し音を聞いている。どうすればいいのか、とっさに判断ができずにそのまま発信が続く。
すると、突然音が途切れた。電話が切れたわけではない。画面は通話中に切り替わっている。どきり、と天馬の心臓が鳴る。
どくどくと、信じられない速さで全身を血液が駆け巡っている。電話。つながった。一体どこへ。誰につながった。混乱したまま耳をそばだてると、声が聞こえた。
「はいはいーい、どしたの、テンテン」
どうして、とか。なんで、とか。そんな言葉は一瞬で掻き消えた。声を聞いた瞬間、全身を巡った歓喜だけが天馬にとっての全てだ。