一億光年の恋 07話
目が覚めて、真っ先に目に入ったのは重厚な柱時計だった。銀河のような文字盤に、星座の絵。
七時過ぎを示す時計の針と、部屋に差し込む光の具合に、天馬は朝を迎えたことを理解する。
この部屋で眠りに落ちたまま、一晩が経っていた。
よほど疲れていたのか、それとも一成の夢を見て安心したからだろうか。天馬は久しぶりに深い眠りに落ちていた。ベッドではないにも関わらず、やけにすっきりとした気持ちで目が覚める。
(――いい夢を見たな)
一成と電話がつながって、ささやかな話をした。眠りに落ちる瞬間まで、その声で自分の名前が呼ばれるのを聞いていた。
天馬は口元にやわらかな笑みを浮かべて、夢の内容をなぞる。やけにリアルで、どこからが夢だったのかも判然としないくらいだ。
ソファに座ったあたりからなのか、電話を掛けたところだろうか。わからないけれど、幸せでたまらない夢だったことは確かだ。
天馬は毎日、つながらない電話をかけていた。誰も出ることはないと知りながら、不在着信を残したスマートフォンで、毎日一成へ電話をしていた。それがつながるなんて、現実の延長みたいな夢だった。
天馬は握りしめたままだったスマートフォンへ視線を落とした。
もう一度電話を掛けたら、またあの夢を見られるだろうか。思いながら、スマートフォンを目の前に引き寄せればストラップが揺れる。
一成がつけた、夏組全員が持っている、密にもらったストラップ。羊毛フェルトのライオンがそこにいるはずだった。しかし。
「――え?」
思わず声が落ちた。心臓がどきん、と鳴ったのは、天馬の目に飛び込んだのがライオンではなかったからだ。スマートフォンにぶら下がっているのは、こげ茶色をしたずんぐりむっくり体型のクマだった。
天馬は目をまたたかせる。それから、二度、三度と自分の目をこすった。
どういうことなのか、まったくわからなかった。ここにはライオンのストラップがぶら下がっていたはずだ。オレンジにも近い明るい茶色の、ふさふさと豊かなたてがみを持つライオン。
「オレサマは選ぶ動物もオレサマって感じ」と幸は言っていたし、天馬も「百獣の王だしな」という理由で選んだ。
それなのに、今目の前に揺れているのはクマのストラップだった。
このクマには覚えがある。
全員が選び終えたあと、「それじゃオレはこのクマだねん」と言って、一成が選んだストラップだ。一成のスマートフォンにつけられて、最期まで握りしめていたと聞かされた。
恐らく血まみれで、破壊されたスマートフォンのそばにあったであろうクマのストラップ。
それがなぜか、天馬のスマートフォンにつけられている。もちろん、血に汚れているなんてことはなくきれいな姿をしたままで。
(ライオンがいいな~ってちょっと思ってたんだけど)
昨日の夢で一成が口にした言葉がよみがえる。
本当は、しし座を表すライオンがいいなと思っていた。だから天馬は交換してやると言った。一成が望むなら何だって叶えてやりたいと思っての申し出を、一成は受け取った。だけれど、それは単なる夢でしかなかったはずだ。
それなのに。昨日までは確かにライオンだったものがクマに変わっているなんて、まるで本当に一成との交換が果たされたみたいじゃないか。
あるわけがないと理性は言っている。しかし、衝動は簡単に行動になった。
スマートフォンを操作して、通話履歴を呼び出した。一番上に残っている「三好一成」の文字。ありえないとわかっている。だけれど、もしかしてと思ったのだ。
だって今、手の中にあるストラップは事実として違うものになっている。それなら昨日の出来事は、夢なんかじゃなくて現実だったのかもしれない、なんて。
暴れ回る心臓の音を聞きながら、天馬は履歴に残る一成の名前をタップした。通話ボタンを押す。恐れにも似た期待で、流れる音に耳を澄ます。
呼び出し音が鳴ったなら、また一成につながるんじゃないか。耳鳴りのように心臓の音が鳴っている。のどがからからに乾いている。
全ての神経を耳に集中させた天馬に届いたのは、しかし無機質なアナウンスだった。
何度も聞いた「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という声。毎日一成へ電話をかけるたびに流れていたから、天馬にとってはすっかりなじみ深いものになってしまった。
天馬は一つ自嘲の笑みを浮かべてから、のろのろと通話を終了させた。
また電話がつながるなんて、そんなことはあるわけがない。だから当然の結末だと言ってもいいはずだけれど、天馬は落胆していた。
もしかして、と期待していたのだ。だって確かに、このストラップは変化しているから。
それとも、これこそが自分の幻覚かもしれないと天馬は思った。
あんな夢を見たから、一成と交換ができたのだと思い込んでクマのように見えているだけかもしれない。本格的に自分の頭がおかしくなっただけなのかもしれない。
それを危ういことだと思う理性は天馬にも残っていた。だけれど、どこかでそれでもいいんじゃないか、と思ってしまうことも事実だった。
クマのストラップを手のひらに乗せる。かわいらしくデフォルメされたクマが、こちらを見ている。血まみれになることもなく、もらった時そのままの綺麗な姿。
こぐま座の北極星になぞらえて、いつだって目印になってくれる天馬らしいと一成が言っていた。たとえ夢でも幻でも、きっと一成ならそう言ってくれると信じられた。だからこのストラップがクマに見えるようになったのかもしれない。
ぼんやりとした調子でそう思った天馬は、そっとクマを握り締めた。手のひらに伝わる感触にもライオンのたてがみは感じられないけれど、幻覚というのはそういうものなのかもしれない。
何もする気が起きず、天馬は星空を描いた文字盤を眺めていた。
今日もまた一日が始まるのだ。一成のいない、夏組の誰もここにそろうことはない。MANKAIカンパニーではない場所で、芝居をすることもない日々が。
一体どうやって時間を過ごせばいいのか、天馬にはよくわからない。
アンティークソファに身を沈めたまま、どれくらいそうしていただろうか。外で音がする、と思ったのとほぼ同時に玄関の鍵を開ける音が天馬の耳に届いた。
数秒考えてから、そろそろ朝食の時間だったことに気づく。空腹は感じていなかったけれど、食事を食べずに引きこもっていれば心配もされるだろうし、わざわざ用意のために来てくれた人に無駄足を踏ませることになってしまう。
天馬は立ち上がり、小部屋から玄関ホールへと出た。
ちょうど、給仕のためにやって来た管理人の奥さんを出迎える形になる。「おはようございます、天馬さん」と言われて、天馬も挨拶を返す。彼女は丸い顔に柔和な表情を浮かべて言った。
「今朝食の準備をしますから少し待っていてくださいね。でも、何かご用事があるなら、終わってからでも大丈夫ですけど」
言いながら視線が注がれたのは、天馬がずっと持っているスマートフォンだった。ポケットに入れるわけでもなく、手で持っているので電話をしていたのかもしれないと思ったのだろう。
天馬は「いえ」と首を振り、ポケットに仕舞おうとしたところで、ふと思い立つ。スマートフォンに揺られるクマ。果たしてこれが幻覚なのかどうか、聞いてみればわかるんじゃないか。
いきなり何馬鹿なことを言ってるんだ、と思われるかもしれない。それでもきっと、一成なら「とりま聞いてみればいいんじゃん?」と言うから。
「――あの。このストラップって、何の動物に見えますか」
スマートフォンごと差し出すように目前に差しだせば、案の定管理人の奥さんは目をぱちくりとまたたかせる。それも当然だろう。彼女は不思議そうな顔のまま口を開く。
「クマのように見えますけど……」
困惑しながら、それでも告げられた言葉。天馬はぐっと唇を噛んだ。
クマだ。これはオレにだけ見えるわけじゃない。本当にクマの姿をしている。昨日まで見ていたライオンではなく、確かにクマのストラップだ。
それが一体何を意味するのか。わからないけれど、天馬の心臓はわずかに鼓動をはやめていた。
ありがとうございます、と告げれば管理人の奥さんは「何かのなぞなぞかしら」と首をかしげる。ただ、あまり深くは考えなかったようで雰囲気を切り替えて告げた。
「それでは、朝食の準備をしますけどそれまで天馬さんは部屋に戻りますか。食堂でお待ちしていただいても、別のところでも――ああ、小部屋でも構いません」
ちらり、と視線を向けたのは天馬が出てきたあの小部屋だ。
管理人の奥さんは、楽しそうな笑みを唇に乗せて「天馬さんは本当にあの時計が好きなんですね」と言う。小部屋から出てきたのは、時計を見るためだと思われているのだろう。
笑い声を含んだような声で、彼女は先を続けた。
「ふふ、小さい天馬さんも、時計が見たいってあの部屋で時間を過ごしていましたし、あの時計には不思議な魅力があるのかもしれませんね。亡くなった人と話ができるなんて言い伝えもありますし」
管理人の奥さんは、楽しそうな調子でそう告げる。天馬は目をまたたかせた。
亡くなった人と話ができる。普段なら馬鹿げた話だと切り捨てる。だけれど、今の天馬にはそうすることができない。
「……そんな話があるんですか」
「単なる昔話ですよ。私も詳しい話は知りませんし……何かの条件がそろえば、過去の時間につながって、亡くなった人と話ができるだとか……古い時計だからそんな言い伝えがあるんだと思います」
そう言ったあと「もしも本当ならいいですね」と笑った。あくまでも世間話の一端とした様子で、「朝食の準備をしなくちゃ」と続くので、彼女の中で話は終わったのだろう。
実際、ただの雑談でしかない。アンティーク品の時計にまつわる、ちょっとした噂話は話のタネになるけれどそれくらいだ。面白い話もあるんだな、で済んでしまう話題でしかない。だけれど、天馬の心臓はさっきから忙しない。
もうここにはいない、どこを探したって二度と会えない人を天馬は知っている。
同時に、昨晩見たはずの夢とクマのストラップがつながって、荒唐無稽な答えを導き出す。
まさか、そんなことあるはずがない。あの時計にまつわる言い伝えがあったとして、それはただの噂話で真実のはずがない。
理性は確かにそう言っているのに。早鐘を打つ鼓動が、体中が熱くなるような感覚が、わずかに荒い呼吸が、体中が訴えている。
あるはずがないとわかっているのに、そのまさかを信じたいと思っている自分を、天馬は強く自覚していた。