一億光年の恋 08話





 昨日と同じ時間――21時過ぎに、天馬は時計の小部屋を訪れた。

 心ここにあらずといった状態で朝食を終えたあと、天馬は自分の部屋に戻った。一時休止となっている撮影の台本を開いていたけれど、当然頭に入ることはない。
 復帰後撮影するはずのクライマックスシーンだ。3分間にわたって天馬一人のシーンが続く箇所で、台詞は全部頭に入れて演技プランを組み立てておかなければならない。わかっていても、何一つ頭には残らなかった。
 それはいつものことではあったけれど、今朝ばかりは少し意味が違っていた。朝食の前、管理人の奥さんから聞いた話が頭から離れなかったのだ。
 天馬が好きだったあの時計には、過去の時間につながって亡くなった人と話ができるという言い伝えがあるという。ただの雑談で、事実であるはがない。
 だけれど、昨日見たやけにリアルな夢とクマのストラップという存在が、天馬に「もしかして」とささやきかけるのだ。

 時計の言い伝えは本当かもしれない。だって実際に、一成と話をしてストラップは変化したじゃないか。

 馬鹿げていると思うし、普段の天馬なら鼻で笑って終わりにしただろう。しかし、今の天馬は荒唐無稽な話にだってすがりたかった。結局のところ、一成と話ができるなら何だってよかったのだ。

 落ち着かない気持ちで一日を過ごした天馬は、夕食を食べるころには決意していた。
 昨日と同じ時間に、同じことをしてみよう。もう一度その声を聞かせてほしい。名前を呼んでほしい。そのためなら、たとえ馬鹿げた行為だったとしても何だって試したい。


 そういうわけで、アンティークソファに座った天馬は、真正面に時計を見すえながらスマートフォンを取り出した。
 深呼吸をして、クマのストラップをそっと握る。
 管理人の奥さんもクマだと言っていた。さすがにライオンとクマは見間違えないだろうから、確かにストラップは変化したのだ。クマのストラップは、昨日の出来事が夢でも幻でもないことの唯一の証拠なのかもしれない。
 深く息を吐き出すと、天馬は意を決したようにスマートフォンを操作する。心臓の音が冗談みたいに響いていた。胸を突き破ってしまうんじゃないかというくらい、騒がしい。
 自分を落ち着かせながら、発信履歴の一番上にある一成の名前を選ぶ。
 天馬は数秒、祈るように目を閉じた。瞼の裏に何度でもよみがえる。光をいっぱいに集めたみたいに笑う姿。ゆっくりと目を開けた天馬は、通話ボタンを押した。

 永遠のような数秒のあと。息を詰めた天馬の耳には、呼び出し音が流れていた。

 一際高く、鼓動が跳ねた。つながった。アナウンスじゃない。確かに電話が呼び出しをしている。一成を呼んでいる。
 どくどくと鳴る心臓の音を聞きながら、汗ばむ手のひらで天馬はスマートフォンを握り締める。声が聞きたい。どうか、どうか、答えてくれ。
 思いながら、ひたすらコール音を聞いていると、突然ぶつりと途切れた。続いて流れ出す声に、天馬の胸は言いようもない感情に満たされる。

「はいはーい!」

 軽やかな声は、確かに一成のものだった。天馬は吐き出した息とともに名前を呼んだ。二度と答えが返ってくるはずがない人の名前。

「一成」
「テンテン……!?」

 呼んだ名前に反応があること。その幸福を、どうしようもなく天馬は知っている。何も言わずに横たわっていた人形のような姿ではなく、くるくるとよく変わる表情でスマートフォンを持っているのだろう。
 弾むような声を聞けることが嬉しい。二度と聞くことのできないと思っていた声がじんわりと天馬の胸を満たし、喜びを広げていく。ただ、電話の向こうの一成は驚愕しきりという様子だった。

「え、今、談話室でテンテンが出てる生放送のバラエティ見てるんだけど!?」

 着信に気づいた一成は、談話室から出てきて廊下でこの電話を受けているらしい。その言葉によみがえる記憶はあった。

「……ああ、そうか。9月2日なら、二時間スペシャルのゲストで出てたな」

 昨日一成は9月1日だと言っていたから、順調に日付をまたげば今日は9月2日だ。
 そして、その日付なら天馬は人気芸人が司会を務めるトーク番組に出演していた。生放送が売りの番組で、夏組全員談話室で天馬を見守っていたという話はあとから聞いた。

「うん、めっちゃ出てたっていうか出てるよ!? なんで電話できてるの……ええ……もしかしてテンテン、影武者とかいる?」
「いるわけないだろ」

 真剣な雰囲気で言われて、思わず突っ込んだ。一成は「だよね~」とうなずいているけれど、そのささやかなやり取りに天馬は泣きたい気持ちになる。
 こんな会話をしていたのだ。思い出にすらならないほどに小さな、何でもない会話。それは当たり前の日常だったのに、今はそれがこんなにも大切だったと思い知らされている。

「えー……じゃあなんでオレ今テンテンと電話できてんの……? パラレルワールド的な世界につながった系……?」

 そこまでつぶやいた一成は口をつぐんだ。沈黙が流れるけれど、天馬は何も言わずにそれを聞いている。この無言は、恐らく一成が何かを考えているからだと察したからだ。

「……もしかして、10月のテンテンだったりして……?」

 恐る恐る、といった口調で紡がれた質問。昨日の会話を一成も覚えているという事実に天馬はほっとする。同時に、馬鹿げていると知りながら確信が深まっていく。

 時計の言い伝えが本当なら。過去の時間につながって亡くなった人と話ができるというなら、電話の向こうの一成は一ヶ月前を生きている。
 だから、天馬はなるべく明るい声で、堂々とした調子で答える。
 一ヶ月前には確かに生きていた一成に向けて、その事実を肯定するような力強さで。未来の自分が電話をしているのだと伝えれば、一成が生きているという事実がもっと確かなものになるのだと信じて。

「だからそうだって言ってるだろ。こっちは10月2日だぞ」

 きっぱり告げれば、一成は「マジで」とこぼす。困惑と戸惑い、それでもどこかに冗談めいた響きを含んだ声だった。
 馬鹿げていることを言っているのは、天馬とてわかっている。一ヶ月後の未来の天馬と電話がつながるなんて話を素直に信じろというほうが無茶だろう。それでも、どこかで天馬は理解していた。

「えー……まあ、でも、確かに昨日のテンテン、反応変だったんだよねん」

 何かを思い出す素振りで一成が言うのは、昨日天馬との電話を終えてからのことらしい。

 昨晩は、電話の向こうの天馬が眠りに落ちるまで一成は何でもない話をしていた。呼び掛けに答えがなくなったところで恐らく寝落ちしたのだろうと判断して、通話を終えた。
 その時点で一成はアトリエ代わりに借りている倉庫にいたので、自分もそろそろ寝ようかと部屋へ向かった。すると、天馬と鉢合わせたのだ。
 電話口の天馬が自分は一ヶ月後の人間で今は10月だと言った当初、一成は「そういう設定のお芝居なのかな」と思った。ただ、あまりにも電話の向こうの天馬が真剣だったので、本当に10月のテンテンかもしれない、とも思った。それなら天馬の言うことを信じると決めたのだ。
 それでも、どこかで芝居の可能性も捨てきれないという気持ちはあった。だから、天馬と鉢合わせた時に「テンテン、さっきの電話ってお芝居の練習?」と尋ねてみたのだ。天馬のことだから、「付き合わせて悪かったな」くらい言うだろうと思って。しかし、天馬は怪訝な顔をするだけだった。

「オレには全然電話してないって言うし、嘘吐く必要もないっしょ。てか、オレと電話してた時間って、テンテン勉強教えてもらってたみたいでさ。あれ、これはマジで不思議な感じ~?とは思ってたんだよねん」

 絵に集中しすぎて夢でも見ていたという可能性も考えた。ただ、着信履歴を確認すれば一番上には天馬の名前があったし、時間もついさっきのものだった。
 念のため掛け直せば、さっきまで勉強を教わっていたという天馬にかかるだけだったけれど。

「実はテンテンじゃなかったのかな~って思ったけど、テンテンのこと間違えるわけないし。それなら、未来のテンテンってのもありかなって思ってたらさ、生放送中でも電話つながっちゃうんだもん。どういう仕組みなのかなこれ!? すごくね!?」

 テンションの高い言葉は、どうやら事態を面白がっている。一成ならばきっとそうすると、天馬は理解していたのだ。
 どんなに馬鹿げた話でも、荒唐無稽な話でも。10月の天馬が、9月の一成に電話を掛けているなんて話をきっと信じてくれる。

「すげー不思議な力働いてる感じでテンアゲ! テンテンのお芝居って可能性もゼロじゃないけど、さすがに生放送中じゃ電話できないじゃん?」

 いくら天馬が卓越した演技力で未来の自分を演じることができたとしても、生放送中の番組に出演しながら電話を掛けることは不可能だ。だからこそ、この状況の不思議さを一成もよく理解しているのだろう。

「でも、10月のテンテンならオレに連絡もできちゃうかもねん。テンテン、今は暇なわけ?」
「――ああ。今は充分時間が取れるから、お前との電話も問題ない」
「ならよかった! でもさ、昨日とかマジでめっちゃ情熱的だったけど、何か心配事とかある感じ? そういう時は、おにーさんを頼ってよん!」

 恐らく一成も、昨晩のことは夢か何かだと片付けかけていた。しかし、今こうして昨日の続きを口にできること、現実的に不可能な事態が起こっていることで、昨日からの全ては現実であると思っているのだ。
 だからこそ、昨晩の天馬の様子が気にかかるのだろう。あまりにも素直に心情をこぼして、すがるような様子に。

「――心配事があるわけじゃないから、一成は気にしなくていい」

 絞り出すように、天馬はそれだけ言った。
 実際何かを心配しているわけではなかった。一成を失ってから空いてしまった大きな穴が埋まらないだけだ。それは純粋な空虚で、心配事とはきっと違う。

「――ならいいんだけど、何かあったらちゃんと頼ってよねん」
「……ああ」

 何かあったら、なんて。お前がいなくなったらどうしたらいいのか、教えてほしい。頼りたい人は、もうどこにもいないのに。
 胸がつぶれそうな気持ちで答えを返すと、一成は雰囲気を変えて言った。

「そだ! 10月のテンテンのアドバイス通り、テンテンにストラップのこと話したらマジで取り替えてくれたよん! ありがとねん」

 天馬と鉢合わせた時に、一成は思い立って言ってみたらしい。電話の向こうの天馬が真摯に祈る響きで言っていたから、それなら試しに頼むだけでもと口にした。
 すると、拍子抜けするくらいあっさりと天馬は「いいぞ」と言った。すぐにスマートフォンからライオンを取り外すと、一成に渡してくれたのだ。

「だから、無事にしし座のライオンゲットしました☆ テンテンもちゃんとクマつけてるよん」

 嬉しそうな言葉に、だからか、と天馬は思う。天馬が眠っている間に、9月の一成はあちらの天馬とストラップを交換した。
 それに呼応するように、天馬のストラップも変化したのだ。一成が持っているのはライオンのストラップであると事実が置き換わったから。

 そこまで考えた時、天馬の背中にぞわりと何かが這い上がるような感覚が走った。ストラップを交換したことで今の現実に変化が訪れるなら。

「なんで10月のテンテンと話できるのかわかんないけど、もしかしてストラップ交換するためだったり!? 実は、めっちゃ重大な意味を持つストラップとか!?」

 テンションの高い声を聞きながら、天馬は口を開いた。
 ゆっくりと、できるだけ落ち着いた声で名前を呼んだ。なになに?と明るい声で返された言葉に、一言ずつを噛み締めるように返す。

「いいか。9月13日と9月19日には、絶対一人になるな」

 もしも自分の言葉で一成の行動が変わるなら。結果として未来にまで影響を与えるなら。絶対に回避したいのは、一成が死ぬ未来だ。

 一体どこを起点にするかと考えた天馬は、二つの選択肢を導き出した。

 9月19日は、言うまでもなく一成が死んだ日だ。通り魔事件の犯人に襲われて、人気のない公園で血まみれの姿で発見された。
 ただ、その発端と言えるのは一成が通り魔事件の目撃者になったことだ。そもそも目撃者にならなければ、一成は襲われることもないはずだった。

 一成が目撃者になったのは、9月13日の23時過ぎだ。
 大学での用事が中々終わらず、帰宅時間が遅くなったという。駅前で行われているストリートACTや路上ライブの写真を何枚か撮ってから、近道を通ろうとして路地裏に入る。
 そこで一成は、飛び出してくる男性とぶつかった。
 謝罪の言葉を交わし合い、道を行き過ぎようとしたところで、一成はうずくまる女性を発見する。
 怪我をしている様子に慌てて救急車を呼び、事件性があるとの判断で警察が出動。そこで女性が通り魔事件の被害者であることと、先ほどぶつかった男性が犯人である可能性が示唆されたのだ。
 日付が変わってだいぶ経ってから、一成は顔面蒼白で帰ってきた。
 早く寝ろと言われながら、粘って一成を待ち続けた夏組は自分たちの判断が正しかったことを理解する。一成は笑って「びっくりだよねん」なんて言っていたけれど、無理矢理浮かべられたものであるなんてことすぐにわかる。
 そんな風に笑う必要はないのだと言いたくて、心に受けた衝撃と傷に寄り添いたくて、一成を待っていたことは正しい選択だったと思い知ったのだ。

「忘れるなよ。9月13日と9月19日だ。どこにも行くな。絶対に一人で行動するな」
「待って、テンテン、その日って何があんの?」

 へらり、ときっと気を抜けた笑みを浮かべているだろう声で一成は言った。
 ただ、それは天馬の言葉を軽んじているわけではなく、痛いくらいに真剣さを感じ取っているからだろう。どうにか雰囲気をやわらげようとしているだけだ。

「……詳細はまたあとで教える」

 本当のこと――通り魔事件の犯人に襲われて命を落とすのだと、伝えたほうがいいことはわかっていた。だけれど、できることなら言いたくなかった。
 一成は、見かけではわかりにくいけれど繊細な心の持ち主だ。同じくらいに強さも秘めているとは知っていたけれど、自分が死ぬのだという未来を告げたくはなかった。だってきっと、それを伝えたら、一成の心のやわらかい部分がきっと傷ついてしまう。
 一成の言葉から、二人の時間は9月と10月という違いはあれど同じく1日から始まっているし時間の進み方も同じことは証明されている。
 つまり、目撃者になってしまう9月13日は天馬から見れば10月13日のことだ。その頃までには真実を伝えるとしても、今はまだその時期ではないと思いたかった。
 一成は電話の向こうでしばし沈黙を流した。しかし、それもわずかな時間だ。落ち着いた声で一成が言った。

「――うん。何なのか全然わかんないけど、テンテンが言うならそうする」

 強い意志を秘めた声だった。もう一度日付を繰り返すと、軽い調子で「おけまるだよん」と言うけれど、天馬の言葉をきちんと受け取ってくれていることくらいわかる。
 いつだってそうだ、と天馬は思う。一成は真っ直ぐと天馬を信頼してくれる。疑うことなどせずに、天馬の言うことだからと信用する。
 そうやって、一成が当然のように自分の心の内側に入れてくれることが、天馬はいつだってどうしようもなく嬉しかったのだ。

「とりま、その日は用事入れないように――あ、課題の締め切りも確認しとこ」

 ぶつぶつとつぶやく一成は、今後のスケジュールを頭で組み立てているようだった。天馬の言葉を踏まえた上で今後の行動が決定されるというなら、一成がいなくなる未来は来ないかもしれない。きっとそうなるはずだ。
 願う気持ちで思っていると、一成が「あ!」と声を上げる。一体何があったのかと、天馬は身構えた。

「テンテンのトークだいぶ聞き逃しちった! 見逃し配信あるけど、リアタイしたかった~!」

 心底悔しそうな声に、天馬は何とも言えない表情を浮かべる。
 何か危ない目に遭ったわけじゃなくてよかった。自分の出番をそんなに見たがっているとは思わなかった。
 嬉しさと心配させるなよ、という気持ちがないまぜになりつつ、天馬は口を開く。

「悪いな。その、テレビ見たいなら戻っていい。だけど、その、また明日電話してもいいか」

 一成の楽しみを奪うのは本意ではない。それに、見たいと思っているのが自分の出演番組なのだ。
 そんなに上手くトークができた自信はないけれど、一成に見てほしいという気持ちがないと言えば嘘になる。夏組の話もしているから、そこはむしろ見てほしかった。
 ただ、今日はこれで終わりになるとしても、また明日一成に電話をしたかった。ここで終わりではないと、また明日も一成に電話ができるのだと思えば、一日は今までとまるで違った意味を持つ。

「今週はしばらく倉庫こもってるから、だいじょぶだよん! テンテンとこんなに電話すんのとか初めてじゃね? 新鮮かも!」

 面白そうな声でそう言うと、軽い笑い声が弾ける。確かに、天馬は一成と連日電話をするなんてしたことがなかった。用事があれば会ったほうがよっぽどはやかったからだ。
 だけれど、今の天馬にとってはこの電話だけが唯一の一成とのつながりだった。途切れないように、必死でつなぎとめている。

「あ、電話長すぎて呼ばれちった」

 独り言のように漏らされた言葉のあと、「今戻るよん」という声が少し遠くなって聞こえた。誰かに向けて答えたのだろう。そろそろ談話室に戻るということだと察した。
 9月の一成の傍には、9月の夏組がいるのだ。彼らと過ごす時間こそが、電話の一成にとっては当然だし、10月の天馬との時間のほうがよっぽどイレギュラーだ。
 それでも一成は、当然のように未来の天馬との時間を設けてくれる。今だけはどうか、それにすがらせてほしいと思いながら天馬は口を開く。

「――それじゃ、また明日電話する」
「おけまる~! オレからだと10月のテンテンにつながらないっぽいから待ってるねん!」

 日常会話の延長のような口ぶりだった。不思議な出来事も、荒唐無稽な話も当たり前のように受け入れて、明日の続きに加えてくれる。その事実を噛み締めて、天馬は答えた。

「ああ。必ず電話する。約束だ」

 心から告げるそれは、誓いのような響きさえ伴っている。
 約束。一成と交わせることが、どうしようもなく嬉しい。何度だって些細な約束を繰り返していけると思っていたのに、そんな未来は奪われてしまった。
 だけれど、今、もう一度、一成と約束ができる。それが決して当たり前ではなかったのだと思いながら、天馬は電話口の一成と約束を結ぶ。