一億光年の恋 10話
次の日の朝、天馬は朝食を食べ終えてからスマートフォンを取り出した。時計の小部屋ではなく、自分の部屋だ。
電話を掛ける先は、発信履歴の一番上ではない。電話帳からわざわざ呼び出した相手――三角だった。
天馬はあまり電話をかけない。遠方に赴いた時に夏組相手と電話をすることはあるけれど、それも大体夏組の誰か(おおむね一成)からかかってくる。三角へ電話をする、という行為自体そうそうしたことがなかった。
だから緊張している、というわけでもなかった。
スマートフォンを前にしてなかなか行動に移せないのは、別れた時のことを思い出しているからだ。寮の玄関で見送ってくれた三角。やさしい声で送り出してくれた。
彼にこれから話すことは、果たして三角を傷つけないだろうか。全ては自分のエゴなのではないだろうか。その気持ちが、天馬の指をためらわせる。
こんな時一成なら、と思う。一成ならきっと同じようにためらうかもしれない。
だけれど、天馬が悩んでいるとしたら、明るい顔で言うのだ。「テンテンが、すみーのためにって思ってるならだいじょぶだよん!」なんて。そうして背中を押してくれる。
天馬は一つ深呼吸をした。
実際、これは単なる自分のエゴでワガママかもしれない。だけれど、夏組のあいつらを一成と会わせてやりたい、その思いだけは本当だと天馬ははっきりと言えた。
そのために必要なことならば、きっと三角も受け入れてくれる。そうやって思えるくらいには、天馬は三角のことを信頼しているのだ。
「――よし」
一言つぶやいて、天馬は三角に電話をかけた。聞き慣れた無機質なアナウンスが流れることもなく、コール音が鳴る。
その事実にほっとしたのもせいぜい最初の10秒程度で、呼び出し音が30秒を過ぎたころには段々不安になってきていた。
そもそも、三角はスマートフォンを近くに置いているのだろうか。電話を掛けたところで気づかないのではないだろうか。寮に直接掛けたほうがよかったのでは。
ぐるぐるとした思考が巡る間にも、呼び出し音は鳴り続ける。留守番電話の設定もされていないようで、天馬は完全に切るタイミングを逃していた。もう少し待てば三角が出るかもしれない――という気持ちで、呼び出し音を聞いている。
すると、唐突に音が途切れたかと思うと、耳慣れた声が飛び込んできた。
「もしもーし。お電話ですか~?」
「電話掛けてるんだから電話だろ……」
思わず突っ込みが口から出た。その途端、電話の向こうの空気が変わったのが天馬にもわかった。
「てんま!? てんまだ! わあ、てんまだ~!」
ぱっと華やぐような声は、三角が天馬からの電話を心から喜んでいることを伝えている。声だけなのに、空気までが色づくようだった。
その反応に、天馬の胸がちくりと痛む。こんな風に喜んでくれるなら、電話してやればよかった。別荘に着いた時にでも、そっちの様子はどうだと電話を掛けるくらいできたのに。
「てんま、サンカクいっぱい見つけた? 素敵なサンカクあった?」
「――いや、こっちではまだサンカクは見つけてないんだ」
「サンカクはてんまを幸せにしてくれるんだよ~。ちゃんと見つけなきゃ」
不注意をとがめるような口調に、天馬の唇から笑みがこぼれる。ここへ来てからサンカク探しなんてしていなかったけれど、確かに寮では見つけられないサンカクはたくさんありそうだな、と思ったからだ。
そんなことすら思えないくらい、天馬の心は空虚な穴に飲み込まれていた。だけれど、今少しずつ周囲へ視線を向けられるようになったのは、有り得るはずのない出来事が自分自身に起こっているからだ。
一成と電話がつながって、再びその声を聞いて、顔が見られて言葉を交わし合える。信じられない現実を、天馬は今生きている。
天馬は、夏組と一成をもう一度会わせてやりたかった。元気な姿で笑う顔を見せてやりたかったのだ。
ただ、天馬は未だに自分の頭がおかしくなっただけかもしれない、という可能性を否定しきれていなかった。
ストラップは確かに変化していた。だけれど、もしかしたらライオンのストラップを持っていたという記憶のほうが嘘かもしれない。本当は最初から、自分が持っていたのはクマのストラップだという可能性だって拭いきれない。
だから、少なくとも9月の一成の存在が現実であるという確証が持てるまでは、夏組に迂闊なことは言えないと天馬は思った。下手なことを言えば、余計に深く心を傷つけてしまうだけだ。それだけは絶対にしたくなかった。
「なあ、三角。お前にちょっと頼みたいことがある」
今日のサンカク探しの報告を聞いてから、天馬はそう切り出した。三角は「なあに~?」と答えを返してくれる。天馬は一つ深呼吸をしてから、ゆっくりと告げる。
「今からオレの部屋に行ってほしい」
三角は最近芝居もしていないので、アルバイトとサンカク探し以外は寮にいるとは聞いている。だから、201号室を訪れることは難しい話ではないとわかっていた。三角は案の定「いいよ~」とうなずいてくれた。
詳しい話は部屋でするから、ということで電話はつないだままにしておく。時々、誰かが三角に挨拶をする声とそれに言葉を返す三角の声が聞こえて、天馬の胸がぎゅっと詰まった。
今までずっと過ごしてきた朝の風景だ。そこには当たり前のように一成がいたのに、今はもうどこにもいない。
それと同時に、三角がきちんと寮での日々を過ごせていることに、ほっとした気持ちになる。誰もがきっと三角を気にかけて、力になろうとしてくれている。よかったと思うのと同時に、天馬は自分への不甲斐なさも痛いほどに感じている。
「てんま、着いたよ~。中入っていいの?」
のんびりとした三角の声に、天馬の意識ははっと引き戻される。そうだ、今はすべきことをしなくては、と天馬は三角へ言葉を伝える。
「ああ、大丈夫だ。そしたら、引き出しの一番上の棚を開けてほしい。ああ、ベッドの下にある引き出しだ。一番上の――そうだ、一番左だ」
その引き出しは、中に固定の仕切りがついていて、入れられるものに制限がある。小物を入れるには適しているだろうけれど、天馬はあまり入れるものがなかったので持て余していたのだ。
結局、ほとんど開けることもなく日々を過ごしているので、何が入っているのか天馬も正直あまり覚えていない。だからこそ、意味があった。
「その中に、紙が一枚入ってないか。栞くらいのサイズの和紙だ」
昨日の夜、天馬は一成に「頼みがある」と言った。それは、何かのメッセージを記して、天馬の部屋の引き出しに入れてくれ、というものだった。
天馬は電話を交わす相手が、9月の一成だと信じている。だけれど、自分の頭が生み出した幻覚という可能性も否定しきれない。
過去の一成だということをどうにか証明したいと思った天馬は、昔見た映画を思い出したのだ。
過去と未来で時間がつながった時、過去から未来へメッセージを送る場面があった。過去の人間が、長い間誰も手を触れないであろう場所にメッセージを残せば、未来の人間はそれを受け取ることができたのだ。
もしも電話の向こうの一成が天馬の幻覚であれば、メッセージは残らない。実際に存在しているわけではないから、何かを残すことなど不可能だ。
9月の一成がメッセージを残しても、一ヶ月の間に天馬がそれを見つけてしまうという可能性もなくはなかったけれど。
普段、天馬は引き出しの存在すら忘れかけているくらいだし、過去の己の記憶として件の引き出しを開いた覚えもなかったので、大丈夫だろうと思っていた。
つまり、メッセージがあれば9月の一成は過去の一成として実在する。メッセージがなければ、一成は全て天馬の頭が生み出した幻覚だ。
「――三角」
答えのない電話の向こうへ、天馬は言葉をかける。
メッセージが見つからなくて、探しているのだろうか。昨晩、一成は快く頼みを引き受けたあと「これがいっかな」と言って和紙の切れ端を見せてくれた。
文章は内緒だよん、と言って教えてくれなかったけれど、天馬は確かに一成が用意した和紙を見ている。
一成のことだから、頼み事はきちんと果たしてくれたはずだ。昨晩の天馬は帰りが遅いことはわかっていたから、天馬が知らない間に紙を忍ばせることはできる。
しかし、引き出しにその紙はなかったのだろうか。全ては天馬の頭が生み出した幻で、三角をそれに付き合わせているだけなのだろうか。
祈るような気持ちで三角からの答えを待っていると、声が聞こえた。小さな、震えるような声だった。
「――10月のみんなへ。彗星見るのめっちゃ楽しみだねん! 9月のカズナリミヨシより」
三角の声が揺れていた。ふわふわとしたやわらかさではなく、呆然としたような響きだった。だってそれは。その言葉は。
「かずだぁ」
何かがあふれだしたような、そういう声で三角が言った。
笑うような泣くような、喜びと悲しみをないまぜにして、それでも笑おうとするような声だと天馬は思う。だけれどきっと、天馬も同じような表情を浮かべている。
「かずの字だよ、てんま」
三角は恐らく、宝物を抱きしめるような顔をしているのだろうと天馬は思った。だってそうじゃないか。
今三角が手にしているのは、一成からのメッセージだ。ずっと一緒にいるのだと思っていた。6人がそろっていれば何だってできた。夏組の大事な一人。欠けてしまった大切な人。
そんな一成からのメッセージだ。宝物に決まっている。
「てんま、かずの字でメッセージが書いてあるよ。栞みたいにちっちゃいけど、ちゃんとかずの字!」
感極まったような声で告げられる言葉に、天馬は「ああ」とうなずいた。それしか言えなかった。
一成のメッセージ。恐らく昨日用意した和紙と同じもの。10月の夏組への言葉。彗星の話を選ぶ。9月の自分と形容すること。全て、天馬と言葉を交わした一成に連なっている。
夢じゃなかった。オレの頭が作りだした幻覚じゃなかった。どうしてなのかはわからない。だけれど確かに、9月の一成と時間はつながった。
天馬は大きく息を吐き出した。一成は確かに実在する。過去から今につながってオレの前に現れてくれた。
嬉しかった。ほっとした。良かったと思った。同時に、天馬は自分のすべきことも理解していた。
一成の存在が夢ではないのなら。確かに過去に生きていて、今につながっているなら。一成が紛れもない現実ならば、やるべきことは一つだった。
「三角、もう一つ頼みがある」
深呼吸をしてから、天馬は三角に声を掛けた。天馬の願い、すべきこと。夏組と一成を会わせてやること。笑う姿を見せて、もう一度言葉を交わし合って、そして。
「幸と椋と九門とお前で、オレのところまで来てほしい。夏組全員で、来てほしいんだ」
一成と会うために必要なのは、小部屋にあるあの時計だ。これを動かすのは現実的ではないし、そもそも場所を移動しても一成との電話がつながるかわからない。それなら、時計はここに置いたまま夏組にここへ来てもらうのが一番だ。
理由を話してもきっと信じてはもらえない。いざ目の当たりにする以外に、信じてもらう道はない。だからここへ全員集まることが絶対に必要だった。
「詳しいことはオレから全員に話す。だから頼む。オレのところまで来てくれ」
いきなり何を言い出すのかと言われるかもしれない。それぞれの家族だって、不安定な状態で外出させることを簡単に許可するとは思えない。
それでも、天馬のすべきことは一つだけだ。何を言われても断られても、全員をここに集める。
為すべきことを思い定めた天馬の瞳には、意志の炎が揺れ始める。