一億光年の恋 13話
ジョギングに出かける九門と、玄関ホールで鉢合わせた。九門はぱっと笑って、「天馬さん、せっかくだから一緒に行かない?」と言って外を示した。
朝食まではまだ時間があるし、そういえば全然外に行っていなかったな、と気づいた天馬は久しぶりに体を動かすのもいいかもしれない、とうなずいた。
軽く流す程度のジョグだったので、天馬もついていくことはできた。森の中は簡素ながらも、一応遊歩道らしきものは整備されているので、そこまでの悪路ではなかったことも幸いだったのだろう。
最近の天馬は食事もあまり取れていないし、欠かすことのなかった運動もできてはいなかった。だから、ずいぶんと体力は落ちてしまっていた。
「こんな森まで持ってるとか、天馬さんすごいね!」
「持ってるのはオレじゃないけどな」
帰りは歩こっか、という九門の言葉に従って二人は散歩の速度で道を戻る。恐らく九門は、天馬の体力を鑑みて歩きに切り替えた。
簡単にくたびれてしまうほど体力が落ちたわけではない。一般的に見れば充分だろうけれど、いつもの天馬を知っているために九門は心配だったのだろう。
「朝ご飯何かな? めっちゃ美味しいから楽しみ!」
心配を表には出さず、九門はそんなことを言う。天馬も「そうだな」と相槌を打った。
昔ほどの食欲が戻ったわけではないけれど、以前に比べればずいぶんと食べられるようになった。それは恐らく、夏組が一緒にいてくれるからだと天馬は理解している。
一成との再会を果たしてから、夏組は全員で今後のことを話し合った。
天馬の決意――「一成を死なせない」。それは当然、夏組全員の願いであり決意でもある。
だから、幸は、椋は、三角は、九門は、天馬の言葉に力強くうなずいた。一成が死んでしまう未来を回避するのだと決意した。
そのために夏組は、洋館に自分たちだけにしてほしいと頼んだ。一成と電話がつながる、という件は夏組だけの秘密にすることに決めたからだ。
もしかしたら、家族には一成の姿が見えないかもしれないし、もしも見えたとしてすんなりと受け入れてくれるかはわからない。
精神に不調を来たしたのだと、病院に連れて行かれる可能性は高いと判断していた。それだけは避けたかったので、夏組以外にこの話はしないことに決めた。
そうなると、一成と話をするのに、家族の目を気にしてこそこそと隠れなければならない。
ただでさえ四六時中一成と話せるわけではないのだ。隠れたり人目を忍んだりして、他のことに時間を取られたくはなかった。
だから、申し訳ないと思ったけれど今だけは家族の目が届かない環境を確保したかったのだ。
共に訪れたそれぞれの家族は、息子たちの申し出に不安そうな顔をしていた。夏組だけをこの場に残してもいいのか。自分たちがついていなくても平気だろうか。
そんな心配を実際口にもしたけれど、最終的には折れてくれた。数日間、この洋館で過ごすうちに目に見えて元気になっていく姿を目の当たりにしたことが大きかったのだろう。
家の中でもふさぎ込んで、無理をして笑っていることがほとんどだったのに、洋館に来てからは、心からの笑顔を見せることが増えた。
夏組として過ごしてきた時間を、彼らが育んできたつながりをよく知っているからこそ、全員が同じ場所にいたほうがいいのかもしれない、と思ってくれたのだ。
結局、定期的な連絡をすることと、期日には迎えに来るという約束をして、夏組だけで過ごすことを認めてくれたのだ。
「オレ、あの――キイチゴ?のジャム好き。甘さ控えめで美味しいよね!」
洋館での朝食は、基本的に洋食が多い。焼きたてのパンに自家製のジャムが並んでおり、その中の一つには甘酸っぱいキイチゴのジャムがあった。
「兄ちゃんは、サツマイモのジャムが好きみたい。スイートポテトみたいだって言ってたから、すげえ甘そう。あれも手作りなのかな~? ちょっと分けてもらえたら、兄ちゃんのお土産にできるんだけど」
「お土産にしたいって言えば喜ぶと思う。確かに、十座さん、めちゃくちゃパンにつけてたな……」
突然客人が増えたにも関わらず、管理人夫妻は丁寧にもてなしてくれた。
天馬の友人でもあるし、天馬の父親から直に頼まれたということも大きいのだろうけれど、本質的に他人をもてなすことが好きな人たちらしい。よく食べる十座のことも、管理人の奥さんは楽しそうに眺めて給仕していた。
「――十座さんにも何にも言えなくて悪いな」
ぽつり、と天馬は言葉を落とす。遊歩道にまだらに落ちる木漏れ日を見つめながら。
夏組だけの秘密にすると決めた時、十座にだけは話をするという選択肢は最後まで残っていた。ただ、首を振ったのは意外なことに九門と椋だった。その時と同じ表情で、九門は答えた。
「ううん。兄ちゃんは、オレたちのことすごく大事にしてくれるから、きっと心配かけちゃうもん」
今のこの事態が普通のことではないことは、夏組全員理解している。異常だろうと何だろうと構わないとは思っているけれど、常識的に考えて有り得ないことはわかっている。
十座はきっと、一成と再び会話を交わすことができたなら嘘偽りなく喜んでくれるだろう。ただ、弟や従兄弟をこの上もなく大切にしているからこそ、異常事態に見舞われていることを看過することもできない。
このままにしてやりたいという気持ちと、医者に見せるべきではないかという葛藤に苦しむことになると思う、というのが九門と椋の弁だった。だからそれなら、最後まで十座にも黙っているべきだと結論を下した。
心配を掛けたくなかったし、十座の心をわずらわせることは、一成だって望みはしないだろう。
「でも、兄ちゃんのことだからさ。きっと、オレたちがちゃんと言えるまで待ってくれてるんだと思うな」
やわらかい笑みを浮かべた九門の言葉に、天馬の頭には洋館を出ていく十座の姿が思い浮かぶ。
十座は「体には気をつけろ」とだけ言って、あとは何も口にしなかった。心配や憂いを伝えることもなく、ただじっと待っていると覚悟を決めたような雰囲気があった。
「――ああ、十座さんならそうだろうな」
十座のことだから、九門や椋――夏組が何かを隠していることには気づいているのかもしれない。その上で、何も言わずにいることを選んだのかもしれない。
いつか口にするまで待つのだと決めたなら、そうすることができる人だと天馬は知っている。
「うん。全部上手く行ったらさ、兄ちゃんにも話すよ。オレたち、カズさんのこと助けたんだよって。そしたら兄ちゃんも褒めてくれるよね」
空を振り仰いだ九門が、まぶしそうに目を細めた。朝の空気はすがすがしく、秋晴れの空が広がっている。今日も一日良い天気になるだろう。九門はしばらく空を見つめてから天馬のほうへ向き直った。
「過去のカズさんと話せるなんて不思議だよね。タイムトラベル?タイムトリップ? なんて言うのかわかんないけど、漫画とか小説とかでいっぱい読んでたから、なんか不思議!」
自分の身に起こるとは思っていなかった、という顔だけれどそれは天馬も同じだ。
そういうファンタジー系統の映画にも出演したことはあるけれど、まさか自分が当事者になるなんて思うわけがない。
改めて、有り得ないはずの出来事が起きているのだと思い知る。荒唐無稽な話を夏組全員が信じていることのほうが嘘みたいだった。こんな、物語のような出来事を。
九門はそういった話にはそれなりに造詣が深いようで、「こういうのは時空管理者とか時を統べる超次元の存在が出てきてバトルものになったりするんだよね」と笑っている。天馬は何とも言えない顔で言葉をこぼす。
「バトルものになると困るだろ」
だって九門は、暴力を連想させる作品が見られない。バトルものなんてそれこそ忌避すべき対象だし、実際の戦闘場面なんで絶対に避けなければならない事態だ。
九門は天馬の反応に目を細めた。笑顔のようで、泣き出しそうにも見える表情で口を開く。
「――うん。でもさ、オレ、アニメとかなら結構大丈夫になったんだ」
そう言う九門は、あれやこれやと見られるようになった作品名を挙げる。
あまりリアルではない描写のアニメであればバトルシーンも見られると言うし、少しずつステップを踏むように、九門は見られる作品を増やしている。
「だから、もう少し時間が経てば、今までみたいに色んなの見られるようになると思う!」
明るい笑顔で紡がれた言葉は、祈りのような響きを含んでいる。
きっと、いつかまた、昔と同じようにどんな作品だって見られるようになるはずだと、九門は言う。今は少しだけ立ち止まっているだけで、また進むことができるはずだと。
「そしたら、タイムトラベルものとかもみんなで色々見たいよね」
そう続ける九門は、今までに見たことがある・読んだことがあるタイムトラベルを扱った作品名を口にした。
漫画やライトノベル、アニメ映画など天馬の知らない作品もいくつかあって、こういう分野は九門や椋のほうがよく知っているよな、と思う。
二人は昨日もスマートフォン越しに、一成とともに過去と未来のつながる作品名を挙げていた。
天馬も映画の話を口にしたし、幸も「そういえばオレも見たことあるかも」と言って話に加わって、三角は「サンカクいっぱい出てくるのはどれ~?」と尋ねていた。
ささやかな一幕は、まるで今まで通りの6人がそろった光景みたいだった。ただ、一成は9月の夏組に呼ばれてすぐにいなくなってしまったけれど。
「時間を超える話って、結構たくさんあるなって椋とも話してたんだけどさ」
色んな作品を思い出していたらしい九門が、天馬に顔を向けて口を開く。
歩道の近くにある大木が太陽の日を遮り、九門の顔に影を落とす。光とのコントラストでやけにくっきりとした影。それと似た声で、九門は言った。
「カズさんとオレたちの今はつながってるのかな」
静かな声だった。天馬を見つめる目は揺れていて、顔に落ちた影が木陰だけのせいではないことを示している。その意味は、天馬も理解していた。九門は、言い訳するような口調で言葉を重ねる。
「カズさんは、いっぱいオレたちと話してくれる。なるべく倉庫にいて、電話にもすぐ出られるようにしてくれるてるよね。9月のオレたちには、オレたちのことがわからないから、その辺も上手く誤魔化してくれてるし」
何度か電話を交わすうちに判明したことの一つに、9月の夏組は10月の夏組を認識しないという事実があった。
ビデオ通話の画面を見せても、ただ黒い画面が映っているようにしか見えないらしく、9月の夏組は不思議そうな顔をするだけだった。こちらからその様子を見ることはできるけれど、いくら声を掛けても反応が返ってくることはなかった。
一成は夏組のいぶかしげな顔に、「スマホ小道具にしたエチュードの練習してたんだよねん」と誤魔化した。するとそこから、9月の夏組でエチュードが始まった。
スマートフォンをアイテムにしてつながっていくコメディは、次第に他の組にも波及して大掛かりな芝居になったのだ。10月の夏組は、画面越しに繰り広げられる光景をただ見守っていた。
「でもさ、天馬さん。オレたち、そんな記憶一個もないよね」
笑おうとして失敗したような、そういう顔で九門は言う。すでに木陰を抜けて、太陽の下を歩いているにも関わらず、浮かんだ影は去らない。
見えないふりをしてきたけれど、もう目を逸らしてはいられないのだと観念したような口調で九門は続ける。
「夏組エチュードから始まって、寮のみんなでお芝居したなんて絶対忘れないのに。そんなことやった記憶なんて全然ない。カズさんのことだってそうだよ。カズさん、時々倉庫で絵を描いてたけど、こんなにずっと行きっぱなしじゃなかった。しょっちゅう電話掛けてるなんてこともなかった」
忘れてしまっただけかもしれないと、九門は思っていた。だけれど、この前の寮全体のエチュードで確信してしまったのだ。
電話のつながった一成の生きている過去と、自分が記憶している過去の姿は少しずつ異なっている。
「カズさん、たぶん前と違う行動も色々してるよね。そしたら、オレの記憶だって変わってもおかしくないのに、何にも変わってないんだ。カズさんはそんなに倉庫に行ってなかったし、電話だって掛けてなかった。今の――電話してるカズさんの行動は、オレの記憶に一つもない」
その事実に思い至った九門は、それなら、と思ってしまった。
過去の一成と電話はつながった。それは事実だ。だけれど、今電話をしている一成が時間を進めたところで、果たして自分たちの未来につながっているのだろうか。
「カズさんの未来は、オレたちの今になるのかな」
タイムトラベルやタイムマシンの物語を、九門や椋はいくつも知っている。その中では、過去を変えることが未来を救う結果につながったものもたくさんあった。
だけれど、それだけが全てではないこともよく知っていたのだ。
「過去を変えると、変える度に世界が分かれるって話も結構あるんだ。世界はいくつにも分岐するけど、オレたちが選べるのはいつでも一個だけなんだ」
自分の心を整理するような口ぶりで、九門は言葉を並べる。天馬はただ、その声を聞いている。
恐らく、ずっとその不安はあったのだ。見ないようにしてきただけで、本当はずっと思っていた。それを今、九門は言葉にしている。
「もしかしたら、カズさんとオレたちがいるのは違う世界なのかも。ううん、今は同じかもしれないけど、少しずつ違っていって、カズさんが助かる世界とそうじゃない世界に分かれちゃうのかもしれない」
過去を変えるごとに、世界が分岐していくとしたら。たとえ過去の一成と電話がつながったとしても、その先が自分たちの未来につながるとは限らない。
だって、電話の向こうの一成の過去を、今の自分たちは知らないのだ。確かに過去に起こった出来事のはずなのに、未来の夏組の記憶には何一つ残っていない。それが意味するものは何か。
九門は少しだけ沈黙を流した。視線をさまよわせて、言葉にするかどうか迷ったあと、意を決したように口を開く。
「――だから、今回オレたちがカズさんを助けられても、今のオレたちは何も変わらないのかもしれない」
過去の一成の話を聞く度、自分たちの知る過去との違いが浮き彫りになっていく。記憶にはない過去の話が出てくるにつれ、二つの世界は枝分かれしていくのではないかと思わされる。
もしもそうなら、電話の向こうの一成の世界が真っ直ぐ進んだところで、その先に今の自分たちはいない。
電話でつながった一成が犯人に襲われる未来を回避したところで、そういう世界の一つとして分岐していくだけならば。
何をしたって、どれだけ努力したって、今ここで生きている自分たちが一成を失った過去は変わらないのだ。不在は決して埋められず、一人が欠けた夏組は永遠に5人のままだ。
「――九門」
天馬の唇から、九門の名前がこぼれ落ちる。
恐らくその不安は、夏組全員が持っていた。最初はただ、一成と再び会えたことが嬉しかった。声を聞けること、言葉を交わせること、笑顔を見られること、それら全てが喜びだった。
だけれど、自分たちの知る過去との齟齬が大きくなるにつれ、不安は大きくなっていった。
この過去は、今の夏組が知る過去と違っている。それなら、この過去の行き着く先も今ここの未来ではないのかもしれない。
夏組の抱えた不安を、九門は改めて口にした。揺れる瞳で、影を背負って、目を逸らしていたものをしかと見つめた。そして、どうすればいいのかわからなくて、立ち止まってしまいそうになっている。
天馬は自分のなすべきことを理解していた。九門に伝えることは一つだ。抱えた不安を、芽生えた憂いを打ち消すための言葉ではなく、伝えたいことは、届けたいのは。
「オレは、一成が好きだ」
強い声で天馬は言った。唐突な言葉に、九門は大きく目をまたたかせる。ただ、言葉の内容を意外に思っているような気配はなかった。天馬は言葉を続ける。
「ずっとあいつに笑っていてほしい。馬鹿みたいに、悲しいことなんか一つも知らないみたいに。一成を傷つけることなんか一つもない場所で、ずっと笑っていてほしい」
誰かの手で命を奪われることもなく、恐怖も痛みも一つも知らずに。楽しみや幸福だけを集めて、ずっと笑っていてほしい。それは天馬の心からの望みだ。
「一成が大事なんだ。オレのできる全てで、あいつを守ってやりたいし、そのためなら何だってやってやる」
一成が死んでしまう未来なんて絶対に許してやるものか、と天馬は決めている。大事だった。特別だった。隣にいてほしい人は一人だけだった。かけがえのないたった一人だった。
それは狂おしいほどの後悔と共に胸に降り積もる、揺るぎない事実だ。何があっても消えることなく、強く宿る。
「なあ、九門。一成が大事なのは、お前だって同じだろ?」
唇の端に笑みを浮かべて、天馬は九門へ言葉を投げる。
九門と天馬では、その言葉が持つ意味は少し違っているのだろう。だけれど、九門が一成を大事に思っていることは紛れもない事実なのだと天馬は知っている。
九門は、天馬の言葉に大きく目をまたたせた。しかし、それは意外なことを尋ねられたことへの戸惑いや困惑ではなかった。
突然、目の前にまばゆい光が差し込んだような。瞼を覆っていた目隠しが外されたような。世界が開けていく瞬間に目を見張るような、そういうまたたきだった。
数秒してから、九門は口を開いた。天馬の言葉を飲み込んだのだろう。迷いのない目をして、朝の光に照らされた、すがしい空気そのもののような声で、力強く答える。
「うん! オレも、カズさんのこと、すっごく大事だよ」
はっきりと答える九門の頭には、笑顔で自分を見守ってくれる一成の姿が浮かんでいる。
一成はいつだってやさしかった。MANKAI寮に入ってからたくさん助けてくれたし、悩んでいれば「どしたの、くもぴ!」と声を掛けてくれた。
一成は魔法みたいに、九門の心を上手に見つけ出す。それでいて、決して無理に踏み込むこともせず、そっと後ろで見守ってくれる。
「カズさんがいるとすごく安心するんだ。カズさんがめちゃくちゃ頼りになるって知ってるのもあるけど――いつだって、カズさんはオレのこと見守ってくれてる」
いつでも笑顔で九門と接してくれる一成。ピカピカ笑って楽しいことに連れ出してくれる。不安だとか怖いだとか、そういうものをすくい上げて、やわらかく包んでくれる。
九門ならできると、その力をきちんと信じてくれて、だけれどもしも怯んだなら背中を押すよ、と言ってくれる。力になる準備はできているのだと、いつでも見守っていてくれる。
「カズさんがいてくれるとさ、大丈夫だって思えるんだ。頑張りすぎて力入っちゃって、どうしよどうしよって思ってても、カズさんが見ててくれるなら平気だって、安心するんだよね」
力強く引っ張り上げるのとも、先頭に立って走り出すのとも違う。だけれど確かに、一成は九門の力になってくれていた。
やさしい笑顔で見守りながら。言葉ではなく、声ではなく、心をそっと預けるように「大丈夫だよ」と伝えてくれていた。
それら全ては、何よりも九門の心のやわらかな場所に寄り添ってくれるからだと知っている。
そんな風に、心の全部で九門の力になってくれた人だ。明るくていつでも楽しそうで、笑顔でいることの意味を、その強さを誰よりよく知っていた。大好きで、ずっと一緒にいたかった人だ。
九門は一つ深呼吸をすると、天馬の言葉に答えた。静かな声で、凛とした空気で、清涼さをまとわせて。
「カズさんのこと、ずっとずっと大事だよ」
たとえ今、一成がいないとしても。これから先、一成と二度と会えないとしても。それでも一成のことが大事だということは、いつまで経っても揺るぎないままだ。
天馬は、九門の言葉にこくりとうなずいた。それは恐らく、天馬の持つ意味とは少し違っているけれど。九門が揺るぎなく一成を大切に思っているとは、天馬だってよく知っている。
だから天馬は言葉にしたのだ。不安や憂いを打ち消すためではなく、ただその背を押すために。
天馬は知っている。九門は晴れやかな顔でよく笑う。だけれどそれは、不安を何一つ知らないわけではなく、憂いも悲しみも何もかもを知って、それでも前に進もうとするからだと。
だから、一成の過去を変えたところで、自分たちの現在にはつながらないんじゃないかと、不安に思って立ちすくんだのなら。必要なのは、打ち消すための言葉じゃない。
今ここで、自分たちが大切にしたいもの。それをきちんと言葉にすれば、九門にとっての力になる。何もかもを背負って、前に進む意志を九門は持っているのだと天馬は何より理解している。
不安や憂いを抱えていても、それでも、大事なことだけ忘れなければ、九門は、夏組は進んでいけるのだ。
天馬の信頼に答えるように、九門はゆっくりと口を開いた。
「もしかしたら今にはつながらないかもしれないけどさ」
九門の瞳は揺らいでいる。しかしそれは、奥底に宿った炎の揺らぎだ。戦うものの目をして、九門は言った。天馬が思った通り、自分自身を鼓舞する響きで九門は言葉を紡ぐ。
自分たちの過去は変わらないかもしれない。電話の向こうの世界とは枝分かれしたままで、自分たちは永遠に一成を失ったままかもしれない。その可能性は不安を呼び、憂いを運んでくる。だけれど。
「それでも、カズさんのこと助けたいよ」
それは、揺るぎのない九門の答えだ。恐れも憂いも、不安も心配も、何もかもを抱えながら前を進む決意ができるのだと、天馬は知っている。
だから、こうして大事なものを形にしてやればいい。自分の気持ちを、何よりも大切なものが何かを抱え直せば、奮い立つための力になる。
現に今、九門はしかと前を見据えている。不安も恐れも抱えながら前へ進むのだと、夏組はそうするのだと、心の底から理解した。天馬は真っ直ぐとしたまなざしで、答えを返す。
「ああ。たとえ違う世界だったとしても関係ない。オレたちはもう二度と一成を失いたくない」
電話のつながった先が、もしも今の自分たちとは違う未来へ進むとしても。一成が生きて、そこにいてくれるなら、答えなんか一つだけだ。
自分たちの未来ではない世界だったとしても、一成が死んでしまう未来なんか許せるはずがないのだから。
「うん。カズさんには、ずっと笑っててほしい」
たとえ自分たちの過去が変わらなくたって、夏組はそう願うのだ。
一成が生きていてくれるなら、たとえそれがどんな世界につながるとしたって、幸せでいてほしい。それは夏組全員の、どうしようもないほどの願いだった。