一億光年の恋 24話




 天馬は時計の小部屋で一晩を過ごした。もしかしたら一成が電話に出るかもしれない――という淡い期待から部屋を出ることができず、頃合いを見ては呼び出しを続けることを繰り返していたのだ。
 恐らく一成が一人になることはなかったのだろう。結局、一成が電話に応えることはなかった。
 一人にならないならそれのほうがいい。だけれど、それでもという願いを捨てることができず、天馬は部屋から動けなかった。

 結局天馬は、スマートフォンを握り締めたまま朝を迎えた。
 眠ることもできず、呼び出し音を繰り返し聞いていたものの、空が白んでいくにつれてコール音すら鳴らなくなる。もはや、電話からはただ無機質なアナウンスが流れるだけだ。
 しかし、天馬はどうしても諦めることができずに一成の電話番号を呼び出していた。
 意味はないとわかっていた。上手く働かない頭でも、朝になってから電話がつながったことはないという事実は覚えている。
 それでも、答えることのない番号へ電話をかけることくらいしか、今の天馬にできることはない。
 その事実とともに募っていくのは、自分への苛立ちだ。結局、今日の夜まで一成が答えてくれるのを待つしかない。もどかしい。この距離が、決して覆らない断絶が苦しい。
 天馬は頭を垂れて、スマートフォンを握り締める。
 オレはいつも何もできない。あの夜だってそうだ。一成が電話をかけたのに、取ってやれなかった。何か言いたかったことがあったのかもしれない。それなのに、オレはあいつの言葉を聞いてやれなかったんだ。
 自分自身への苛立ちと、途方もない無力感に包まれる。
 助けたい。守りたい。その気持ちに一つも嘘はないのに、できることなんてたかが知れている。
 頼む。どうか一成を守ってくれ。一体誰に祈ればいいのかもわからないけれど、天馬はただつながらない電話に向かって願うことしかできずにいる。

 一体今が何時なのかも定かではなく、上手く働かない頭で、同じ行動をなぞるように電話だけを繰り返している。ぼやけた意識では、今が現実なのか悪い夢を見ているのかもわからなくなりそうだった。
 しかし、天馬の意識は突如として現実に引き戻される。無機質なアナウンスだけを留めていた天馬の耳に、知らない音が飛び込んだからだ。

――誰かが、外を歩いている。

 朝食の準備のために訪れた管理人の奥さんだろうか、と思って時計を見るけれど、まだ時間には早かった。いくら朝一番に到着するとは言っても、夏組の予定時刻まではまだ先だ。
 それなら一体誰が。洋館は森に囲まれているし、森は皇家の私有地だ。人家とは距離もあるし、偶然入り込むなんてことはあり得ない。相当強い意志を持ってここまでやって来なければ。
 何か用事のある管理人かもしれない。思った天馬は電話を切り、のろのろと立ち上がった。こんなに朝早くから訪れたことはなかったけれど、だからこそ緊急なのかもしれない。
 南に面した窓には、レースのカーテンがかかっている。
 人影は、どうやら洋館の前を行ったり来たりしているようだ。何かを探すみたいな、目的のはっきりしない動き。
 違和感はあった。管理人であれば、洋館のことは天馬よりよく知っている。こんな風に、右往左往するような素振りで歩くとは思えない。
 しかし、天馬の頭は上手く働いていなかった。一晩中焦燥に駆られ続け、眠ることもできずにいた天馬は、ほとんど無意識のうちにレースのカーテンを開けた。

 少しずつ白み始めた朝の空気。ささやかな秋の太陽から放たれる光が窓から差し込む。天馬は思わず目を細めた。窓越しに広がる森の風景。人の姿は見えず、聞き間違いだったのだろうかと思う。
 しかし、次の瞬間窓の前に人影が現れた。
 天馬の心臓が大きく飛び跳ねる。
 管理人ではなかった。若い男。短髪で、がっしりした体格。無表情に天馬を見つめている。何だか見覚えがある。どこかで見たような――。
 記憶の片隅から答えを導き出そうとするけれど、それより速く人影が動く。腕を振り上げた、と思った瞬間、窓ガラスが割れた。

「!?」

 とっさに後ろへ後ずさるものの、小部屋は狭い。アンティークソファと机にぶつかり、足を取られた天馬はその場に尻もちをつく。背中を柱時計にしたたかに打ちつける。
 一瞬呼吸が奪われて咳き込んでいる間に、窓硝子は木枠ごと粉砕されていた。粉々に砕け散る硝子片と、ぐしゃぐしゃになった木材が部屋の中へ降ってくる。
 人影――若い男は、窓だった場所から部屋の中へ入ってきた。
 パーカーにジーンズという出で立ちは、まるでコンビニにでも出かけるような格好だ。しかし、その手にはどう見ても日常生活に不釣り合いなもの――斧が握られていた。
 男は完全な無表情で、部屋を見渡した。
 床に座り込む格好の天馬で視線を留めると、一歩足を踏み出す。スニーカーの下で、割れたガラスがじゃり、と音を立てた。
 何もかもが非現実的で、まるで映画のワンシーンのようだった。天馬は呆気に取られたようにその顔を見つめて、はっと気づく。
 どこかで見たと思った。見覚えのある顔だと思った。これは、この顔は。一成が通り魔事件の目撃者となり、万が一のことを考えて寮の見回りを行うことになった。
 これは、あの時見回りを担当すると言っていた警官だ。

 斧を持った警官が自分の前に立っている。
 その事実が頭に上手く染み込まない。どうして。なんで。何が起きている。混乱した天馬の体は、固まったまま動かない。
 警官はのっぺりとした表情で天馬へ近づく。小さな部屋だ。すぐに天馬の前に辿り着くと、まるでそうすることが前から決められていたような自然さで、持っていた斧を振り上げた。
 空気を切り裂く重い音。警官からはどんな表情もうかがえない。しかしこの一撃が明確な殺意から生まれたことだけは、天馬にも理解できた。
 逃げる余裕はない。真っ直ぐ天馬に向けて放たれた殺意と一撃。反射的に両手を頭上に掲げるけれど、意味はない。
 思い出すのは。脳裏に浮かぶのは。家族。今まで演じた役。MANKAIカンパニー。旗揚げ公演。千秋楽。芝居。夏組。幸、椋、三角、九門。一成。オレの、大事な、大切な、一番の。
 破壊音が響き、ぎゅっと目を閉じた天馬は、襲いくる衝撃に備えようとした。しかし、いつまで経っても衝撃はやってこない。
 恐る恐る目を開くと、戸惑うように犯人が前方を凝視している。視線を追えば、斧は天馬の背後にあった時計に深々と突き刺さっていた。
 文字盤を覆っていた硝子ケースを突き破り、銀河を描いたような文字盤の中央に刃が入っている。内部のゼンマイが露出して、振り子も止まっている。
 天馬が何度も見つめてきた時計の針は衝撃で吹き飛び、精緻な星座の絵は粉々に砕け散った。
 時計から斧が生えたような異様な光景。それが意味するものを、天馬は理解する。
 ずっとここで時を刻み続けた全てが、長い間この場所で時を守り続けた時計が、今の一撃で破壊されたのだと思い知る。
 時計が動かなくなったら、一成は。
 過去の時間とつながって亡くなった人と話ができるなんて言い伝えを持つ時計だ。どんな仕組みなのかはわからない。ただ、この時計があることが条件だった。
 だけれど、その時計が壊れてしまったら。
 過去の一成と電話をつなげてくれた。声を聞かせてくれて、顔を見せてくれて、たくさん話をさせてくれた。その時計が壊れてしまった。
 唯一のつながりだった。未来から、どうにか一成を守るためにつないできた全てが断ち切られてしまった。
 全身から力が抜けていくような感覚。しかし、警官が柄の部分を握って斧をどうにか引き抜こうとしていることに気づいて、天馬は我に返った。
 内部のゼンマイにうまい具合に噛み合ったのか。振りかぶった斧はがっちりと時計に捕まえられて、動かすことができないらしい。
 今がチャンスだ、と判断した天馬は軋む体を動かして立ち上がり、床を蹴った。

 小部屋の扉を開け放ち、玄関ホールへ走り出る。スマートフォンは手に持ったままだ。このまま外に出て助けを呼べばいい。
 しかし、警官の行動は速かった。動かせない凶器には早々に見切りをつけると、猛然と天馬のあとを追ったのだ。
 弾丸のようなスピードで背後に迫る。普段の天馬ならば、きっと走り抜けられた。だけれど、一成が死んで以降食欲もなくなり、十分な運動もできていない。
 すっかり体力の落ちた天馬に追いつくのは、造作もないことだった。
 玄関の扉に辿り着く前に、警官が天馬を捕まえた。腕を取られたと思ったら、そのまま引き倒されて仰向けに転がされる。持っていたスマートフォンが、手から離れて床を滑っていった。
 警官は天馬に馬乗りになると、体を押さえつける。逃げ出そうともがくけれど、意味はなかった。
 警官はぶつぶつとつぶやいている。焦点は合っていなかった。無表情の奥に恐慌をにじませながら警官は言葉を吐き出す。

「死んでもらわないと。みんな死んでもらわないといけないんだ」

 天馬を拘束した警官は、緩慢な動作でゆるりと手を伸ばした。太い指が天馬の首に這わされる。体が強張る。逃げ出そうとするけれど、抵抗は簡単に封じられる。指がからみつく。

「ああ、きみも見ちゃったよね、俺のこと。それじゃ死んでもらわないと。きみも、あの子も、余計なことをするからいけないんだ」

 ぶつぶつとつぶやく警官の目に、天馬は映っていなかった。
 さっきまでののっぺりとしていた顔は崩れて、笑みのような表情が浮かび始める。だらりとしてしまりがない。ひどくおかしな笑み。警官は楽し気にも見える表情で、手に力を込めた。

「何もしなければよかったのに。いつも写真なんか撮ってるからいけない。馬鹿みたいに何でもかんでも写真を撮る。ああいうのはだめだ。俺の言うことも聞かなかった」

 ゆるゆると、しかし確実に首を絞める力が強くなる。苦しい。抵抗を。どうにかして抜け出さなくては。混乱しながら、天馬は喉元の指を引きはがそうとするけれど、がっちりと絡みついて離れない。

「黙ってスマホを見せればよかったのに。抵抗なんかするから、さ、刺さなきゃいけなかった」

 妙な笑い声とともに吐き出された言葉。警官は言う。おかしくてたまらないといった、上ずった声で。奥底から立ち上る狂気をにじませた声で。
 馬鹿な子だ。警官である自分のことをすっかり信用して、簡単に連れ出せた。馬鹿なやつだ。

「刺すつもりなんかなかった。ちょっと脅すだけだったのに。あの子が悪い。俺のせいじゃない。抵抗なんかするからだ。俺の言うことを聞かないから、だから刺さなきゃいけなかった」

 ちぐはぐな笑みを浮かべた警官がつぶやきを落とす。
 真正面から、ナイフを刺した。男のくせに細いから、ロクな抵抗にもならなかった。簡単に刺さってしまった。驚いたような顔をしていた。刺すつもりなんかなかったのに。
 息ができない。意識がぼやけてくる。頭が破裂しそうだ。
 警官の声が降ってくる。天馬に向けたものではなく、蛇口が壊れた水道のように止まらないだけだ。声が。愉悦がにじんだような、だらしのない声が降ってくる。

「あの子が悪い。金髪なんてちゃらちゃらした格好して、遊び回ってるから俺のことを見ちゃうんだ。何でもかんでも写真なんか撮って。男のくせに、筋肉もない。だから簡単に刺されるんだ。馬鹿なやつだ。俺の言うことも聞かない。だから刺さなきゃいけなくなるんだ」

 警官が吐き出す言葉。唇から吐き出されるのは。警官が刺したという相手は。金髪の、筋肉もない、細い体。いつもカメラを構えていて、何でも写真を撮る。目撃者。守ると言った相手。
 一成だ。警官が語るのは、一成を刺した瞬間の情景だった。
 理解した瞬間天馬を襲ったのは、怒りでもなければ怨みでもなかった。もっと明確な、純粋な憎悪だった。苦しさも、遠のく意識も、全てが塗りつぶされる。

 お前が、一成を殺した。あいつの命を奪った。痛くて怖くて仕方なかったはずだ。助けを願ったはずだ。もっと生きたかった。やりたいことがたくさんあった。一緒に舞台に立ちたかった。これから先の未来までずっと一緒にいるんだと信じてた。それを全部、こいつが奪った。一成の未来を、これから先に待っていた幸福を、笑顔を奪った。あいつがどれだけ綺麗に笑うか知ってる。お前は殺した。笑顔を、幸福を、未来の全てを奪った。お前が、一成を殺した。

 遠のきそうになる意識を、天馬はどうにか叱咤する。
 簡単に殺されてたまるか。今ここで、お前の勝手でオレまで死んでたまるか。絶対に許さない。一成を殺したお前を、絶対に許さない。
 酸素が入らず、体から力が抜けていく。全身が炎に焼かれているように熱い。
 しかし、頭はひどく冷静で、燃え滾る感情に身を包まれながらも今自分がどう動くべきかを理解していた。意識がぼやける。それでも今、この手から逃れるためには。やるべきことは。
 天馬はほとんど無意識で、体を動かす。
 拳を握り締める。どうにか力を入れる。意志の力だけが天馬を動かしている。遠のく意識で、握った拳を持ち上げる。首を締める警官の右脇を、思い切り殴り飛ばした。
 大した力は入っていなかったのかもしれない。だけれど、突然殴られたことで力がゆるんだことも確かだ。空気が入ってくる。酸素を取り込み、さらなる抵抗を試みようとしたところで突然。
 玄関ホールにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。