一億光年の恋 25話
びくり、と反応したのは天馬だけではない。警官もとっさに音の方向――階段のすぐ近くに転がっているスマートフォンへ目を向ける。
瞬間、天馬は思い切り警官を蹴り上げた。
衝撃で力がゆるみ、拘束から逃れる。着信は未だ鳴り続けているけれど、このまま一目散に扉へ走って外へ行くのが正解だと、天馬もわかっていた。
しかし、天馬は扉とは正反対の、階段へと走った。鳴り続けるスマートフォン。ずっと呼んでいる。答えてくれと、祈るように響いている。
きっと、今スマートフォンを拾う必要はない。逃げるほうが先だ。わかっていても、天馬にためらいはなかった。
だってずっと電話に出てやりたかった。あの夜、一成の電話に出られなかった。伝えたい言葉を受け取れなかった。
電話が鳴っている。もう二度と、あんな後悔をしたくない。今度こそ、ちゃんと受け取る。電話に出る。あの時出られなかった。声を、言葉を、何もかもを、今度こそちゃんと聞くのだ。
スマートフォンを拾いあげた天馬は、画面も見ずに通話ボタンを押した。
途端に耳に流れる声。雷に打たれたような衝撃が走り、続いてじわじわと満ちていく。聞き間違えるわけがない。何度だって聞いていたかった。大事だった。大切だった。
「テンテン!?」
焦ったようなその声すら愛おしくて、天馬の唇に笑みが浮かぶ。
どうして、とか、なんで、なんてどうでもよかった。一成の声が聞けることが嬉しい。自分の名前を呼んでくれるという事実に、喜びが満ちて声になる。
「一成」
声がかすれて最初は上手く形にならなかったけれど、どうにか名前を紡ぐ。電話の向こうで流れたのはほっとしたような空気だ。しかしそれも一瞬で、すぐに切羽詰まった声になる。
「テンテン、今どこ別荘? 無事? 何か狙われてるっぽいんだけど!」
「別荘にいるけど無事じゃない。あの、何だ、警官が斧持って襲ってきた」
咳き込みながら答えを返す。ちらりと視線を向ければ、警官は濁った目で天馬へ視線を向けていた。ゆらり、と足を踏み出す。
捕まえようとしていることは見て取れるものの、外へつながる扉は警官の後ろだ。あっちへは行けない。
「テンテン、外出られる?」
「いや、無理そうだ。二階に行くしかない」
一成の言葉に答えながら、天馬は階段を駆け上がった。
外に出ようとすれば警官に捕まえられるだろうし、そもそも階段を下りたが最後、警官に取り押さえられそうに思えた。
もはや、天馬の辿るべきルートは一つだった。
後ろから警官が追いかけてくる気配を感じながら、天馬は自室に駆け込んで扉の鍵を閉める。ただ、建物同様に年季の入った鍵だ。侵入者を阻んでくれるのかはわからなかった。
案の定、追いついた警官は扉の前で鍵を破壊しようとしているらしかった。ガチャガチャとドアノブが回っている。一体どうすれば――と思っていると、一成の慌ただしい声が響く。
「今どこ? 部屋?」
「二階のオレの部屋だ」
「おけまる、バルコニーあんね!?」
「なんでお前知って――」
そんな話をした記憶はなくて言うけれど、その声はさらに焦ったような一成の声にかき消される。天馬相手ではなく、誰かに向けて言っているようだ。
「あと何分? 5分!? もうちょいはやく――3分!?」
一体何の話だ、と思っていると、扉がいっそう大きくたわむ。天馬はあとずさりをして距離を取る。隠れるところは。逃げる場所は。思っていると、一成の声が響いた。
「テンテン、バルコニー! バルコニー出て!」
一体どうして、と思いつつ、天馬の足は勝手に動く。一成の声に導かれるようにして部屋を縦断し、バルコニーに通じる窓を開け放つ。
外の風が吹き込み、カーテンがわずかに揺れる。一歩踏み出すのと同時に、背後から大きな音が響く。
バルコニーに立った天馬は、体ごと振り返る。真正面に位置する扉がいっそう激しくたわむ。鍵を壊すというより、扉そのものを破壊しようとしているようだった。
ぎしぎし、と蝶番がきしんでいる。ごくり、と唾を飲んでただ扉を見つめる天馬の耳に、一成の声が響く。
「ごめん、3分だけどーにかして!」
悲鳴のような声に、どうにかってどうしろっていうんだ、と思った。それと同時に、扉のほうから一際大きな音がした。ガタガタと蝶番が揺れている。ぎくりと体をこわばらせてその光景を見つめる。
体当たりでもしたのだろうか。重い衝撃音。たわむ扉。上の蝶番がゆっくり外れる。カーペット敷きの床に、ごとりと落ちる。同時に、閉じられていた扉に隙間ができる。太い指が現れる。
重い衝撃音が響き、扉がたわんだ。ガタリ、ともう一つの蝶番が揺れている。見つめる天馬の目の前で、さらに扉が軋んだ。
衝撃音が続き、かろうじて引っかかっていた下の蝶番がごとりと床に落ちた。
ゆっくりと、木製の扉が内側に倒れていく。その向こうから現れる。警官の姿を目にするのと同時に、天馬の耳に声が届く。
「テンテン――テンテンならできるっしょ!?」
悲鳴みたいなか細い声。だけれど、奥底からほとばしるものを知っている。
いつだって、一成は真っ直ぐと信じてくれた。天馬ならできると。他でもない皇天馬ならと、心の全てで信頼を向けてくれていた。
一成の声が確かに響いて、耳に届いて、背中を押される。
一成が信じてくれるなら何だってできる。一成が確かに名前を呼んで、天馬のために言ってくれるなら。他の誰でもない一成が、ただ真っ直ぐと天馬を信じてくれるなら。
思った天馬の唇からは、勝手に言葉がこぼれ落ちる。かちり、と。スイッチが入ったのが、自分でもわかった。
「――『お前が来るのはわかっていた』」
真っ直ぐと警官を見つめた天馬は、耳に当てていたスマートフォンをゆっくり離した。慈愛すらも感じさせる穏やかな笑みを浮かべて、言葉を口にする。警官の体がぎくりと強張ったように見えた。
視界が一気にクリアになる。錆びついていた回路が開かれていく。
今まで見えなかったものが、閉じていたものが、何もかもが明瞭になる。辿るべき道も、目指すべきゴールも全てがよく見える。どうすればいいか、どこに向かえばいいか、何もかもを理解する。
「『少し話をしようじゃないか』」
スマートフォンをポケットにしまった天馬は、朗らかさの中に確かな悪意を忍ばせて告げる。
客人をもてなすために心を込めた紅茶を用意して、しかし、そこにはたっぷりの毒薬を混ぜるみたいに。目の前の人間を歓迎して、嬲り殺そうとする悪意で天馬は言う。
警官は、踏み出しかけた足を止めていた。天馬の言葉に戸惑っていることは見て取れた。
復帰後に撮影されるはずの、映画のワンシーンの台詞だ。3分近く、天馬が一人で芝居を続ける。突然演劇が始まったことに対する戸惑いが大半だろう。しかし、それだけではないはずだ、と天馬は思う。
オレならできる、と天馬は自分に言う。
オレは誰だ。皇天馬だ。世界中の主演男優賞を総なめにする男だ。それなら、3分間の一人芝居くらい、できなくてどうする。
指先一つまで作り変えろ。オレは誰にだって、何にだってなれる。この場の空気すら支配しろ。オレは今、この場所の王だ。圧倒的な力でなぎ倒せ。オレならできる。皇天馬ならできる。
「『なあに、そう急ぐことはないだろう。結末なんてとっくに決まっているんだ』」
きゅっと目を細めた天馬は、警官に向かって言葉を放つ。
愉悦のにじんだ笑顔。楽しくてたまらない、面白い冗談を聞いたみたいな顔。台詞が覚えられなかったことが嘘のように、唇からはするすると台詞が紡がれていく。
「『お前が生まれ落ちた瞬間から、何もかもが定められていた。ここまで刻んだ足跡を振り返ってみるといい。この結末に向かっていたのだと思い知るだろう』」
芝居がかった動作で言えば、警官がぴくりと反応した。何かの芝居の台詞だ、ということは理解しているはずだ。
だけれど同時に、それが自分自身に向けられたものだという意識もあるはずだ。天馬は確かに、目の前の警官に向かって芝居をしているから、その感覚は間違いではない。
ここからさらに、警官を引きずり込まなくてはならない。天馬は冷静に、注意深く、しかし熱狂を身にまといながら台詞を続けた。
「『定められた予定調和。神の見えざる手。或いは運命、宿命と呼んでもいい。逃れることのできない結末まではあと少しだ。俺の話を聞くくらい、大した誤差じゃない。どうせ何も変わりはしないんだ。少し話をしようじゃないか』」
大袈裟な身振りで言葉を刻んだ天馬は、最後に警官へ右手を差し出した。まるでダンスでも申し込むような仕草で、こちらの世界にいざなうように。
警官は何も言わないけれど、動くこともない。天馬はその様子を眺めながら、声のトーンを変える。
今までの圧倒的な芝居から、ささやかさをにじませる芝居へ。繊細な、日常生活の延長のような、それでいて暗い影を落としながら。
「『そう、哀れな男のささやかな話だ。ありふれた、何でもない日々を過ごしてそうして今日まで至った、平凡な男の話に耳を傾けてくれ』」
懇願するような調子で言えば、警官が天馬を見た。天馬は臆することなくじっとその目を見つめ返す。
能面のような無表情でもなければ、しまりのない笑顔でもない。何か、すがりつくような目すらしていた。
天馬は、ただ淡々と言葉を紡ぐ。主人公と親友が交わしたであろう会話と同じ空気感で、だけれど決定的に道が違ってしまったことを知る素振りで。
「『名前も年齢も、どこでどんな風に生まれたかも重要じゃない。大事なのはただ一つ。男は生まれついてからずっと、埋められない穴を抱えていた』」
埋められない穴を天馬は知っている。失ってから知った大切な人。特別だった。世界でたった一人を選ぶなら誰なのか、手からこぼれ落ちて初めて知ったのだ。
「『誰にも埋めることのできない、永遠の空虚だ。満たされない欠乏を、塞がることのない欠落を、身の内に抱えて生きていた』」
警官は何も言わず、ただじっとしている。その耳に、天馬の言葉は、声は届いているはずだ。
天馬は大袈裟な身振りはせず、揺らぐ視線で心情を表現する。
埋まらない穴。永遠の空虚。塞がることのない欠落。生まれついて抱えた欠乏とともに生きてきた、その人生。塗炭の苦しみを味わいながら歩んできたであろう足跡。それら全てへの憐憫を、声に芝居に乗せる。
「『わかるだろう、お前なら。痛みすら苦しみすら存在しない。ただ穴が開いている。どんな喜びも、幸福も、何一つ穴を埋めることはできない』」
切々と訴える声に、少しずつ熱を加えていく。クライマックスに向けて、熱量を調整しながら言葉を紡ぐ。警官の様子を注意深く観察して、何も言わず、動く素振りもないこと確認しながら。
「『頬を撫でる手の温みも、抱きしめる腕の力強さも。共に笑い合う横顔も、親しみを込めて呼ばれる名前も、男の内を素通りしていく』」
一つ一つを思い出す素振りで並べる言葉に、警官の表情がわずかに動いた。天馬はそれを見逃さない。心のどこかに、恐らく台詞が触れたのだ。一体どこだ、と思いながら天馬は真っ直ぐと声を張り上げた。
今までの日常から一転して、ここからは再び芝居を劇的に変えていく。
「『何たる虚しさ! 世界はいつだって白黒で平坦だ。凪いだ海が広がり、小舟に取り残されている。世界はこんなにも男に対して無関心で、無機質で、無意味だ』」
右手を胸に当て、天を仰ぐ。埋まらない空虚を抱えて生きてきた男の悲哀を訴えるような口調。
警官の意識がこちらに向いていることを感じる。そうだ、そのままオレの演技を見ていろ。思いながら、天馬は顔をゆがめて言葉を続けた。
「『この世の全ての快いもの、心地よいもの、喜びと呼ばれるもの全て、幸いたる何もかもが、男にとっては価値がない。全ては空虚な穴に落ちて消えていく』」
埋まらない欠落を抱えて生きる。その苦しさを天馬は知っている。
一成がいなくなって、もう二度と会うことができなくなった。二度と名前を呼んでくれないし、一緒に舞台にも立てない。共に未来を過ごすこともできない。
世界中のどこを探したって一成はいなくて、二度と笑ってはくれない。
何もかもを失って、初めて特別だと気づいた。全ては遅すぎて、ただ天馬の胸に深い穴を穿ったのだ。絶望と呼ぶことすら生温い感情を声に、言葉に、表情に乗せて天馬は芝居を続ける。
天馬は一つ深呼吸をした。真っ直ぐと警官へ視線を向ける。ここから場面は転換する。他でもない目の前の人間に向かって、挑発するように笑みを投げた。
「『だが、お前はもう知っているだろう』」
警官がびくりと反応して天馬を見つめ返す。答えを教えてくれとすがるような、先の言葉を待ちわびるような様子。
恐らく彼も、何か埋まらない穴を抱えて生きてきたのだと天馬は思う。それが何かを許される理由になるとは思わない。ただ、恐らく彼は今演じるこの役と近しい場所で生きてきた。
「『男の穴を満たすもの。焦がれ続けた。何よりも欲していた。何を犠牲にしても厭わない』」
何かを誘いかけるように、天馬は言う。
今自分が演じる役ならば、目の前の警官のような男を自分のもとへ引き寄せる。光の差さない、真実の暗闇に引きずり込む。ここまで落ちて来いと、深淵の底で待っている。
穏やかさの奥に捕食者の笑みを潜ませて、天馬は続ける。
「『ああ、そうだ。この世の全ての快いものに価値なんてなかった』」
言って、天馬は心底楽しくて仕方ないと笑う。
自棄になっているのでもなければ、恐慌を来たしたわけでもない。ただ純粋におかしくてたまらない。ようやく見つけた幸福に、辿り着いた愉悦に、心からの祝福を捧げるように。
天馬は瞳に生気を宿して、真っ直ぐと警官を見つめた。臆することなく、そらすことなく。次が最後の言葉だ。長い台詞が終結する。あふれ出る喜びを乗せて、天馬は声を発する。
「『俺に必要なのは、この穴を埋めるのは、絶望と苦痛に彩られた世界だった!』」
両手を広げて、歓喜の言葉を告げた瞬間だった。
外から室内に向かって、風が吹き抜けた。そう思ったのも一瞬で、すぐに誰かが部屋に飛び込んで来たのだと悟る。
天馬の背後から現れて、あっという間に部屋へ転がり込む。警官がとっさに動こうとするけれど、それより先に相手が反応した。瞬時に距離を詰めると、警官を床に転がす。
そのまま背中に乗って腕を捻り上げているのは、よく見慣れた人物――密だった。
「天馬、怪我はないかな」
続いて背後から響いた声に振り返れば、こちらもよく知った人物、千景が立っていた。天馬は目を白黒させながら密と千景を交互に見るしかできない。一体何が起きているのかまったくわからなかった。
千景は天馬の首元に目をやってわずかに顔をしかめたものの、すぐにいつも通りの表情になると、スタスタと室内へ歩いていく。
「こいつを連れてきたのは慧眼だったな。――天馬、犯人は俺たちが連れていくよ」
「千景、遅い」
「お前が規格外なだけだろ。猿じゃないんだ、木登りは範疇外だ」
不満そうな密の言葉に千景が答えて、どうやら背後の木を伝ってバルコニーに降り立ったらしいと悟る。そういえば、三角も同じルートでバルコニーに現れたことがあったな、と思ったのだけれど。
それにしても、一体どうして密と千景がここにいるのか、天馬にはさっぱりわからない。ただ、危ないところを助けられたことだけはわかったので、二人に向かって「ありがとう、助かった」と告げる。
千景と密は、恐るべき手際の良さで警官を昏倒させていた。そのまま体を担いで部屋を出ていこうとしていたところでの、天馬からの感謝だ。
二人は一瞬虚をつかれたような顔をしたあと、すぐに笑みを広げた。いつもはまるで違った雰囲気を持つ二人が時々浮かべる、近しい笑みだ。穏やかで静かな、月の光を思い出させるような。
「大したことじゃないさ」
「これくらい普通」
そう告げる二人はすぐにいつもの顔に戻るけれど、天馬の感謝を受け取ってくれたことは理解できた。もう一度礼を言えば、密は首を振って千景は何だか面白そうに笑った。
「感謝なら、俺たちよりもっと相応しい相手がいるんじゃないかな」
どういう意味か、と問おうとする。しかし、千景は軽々犯人を担いで部屋を出ていってしまうし、密も眠そうにその後ろを着いていく。
詳しく聞いても教えてくれそうにない、と思っている間に二人は部屋を出ていってしまった。
ただ、それと入れ違うように階段を駆け上がる音が聞こえてきて、天馬は視線を向ける。密と千景がいるのだ、他に誰が来ていてもおかしくはないと思った。
しかし、部屋に飛び込んできた人物を目にした瞬間、天馬の呼吸が止まった。
「テンテン!」
切羽詰まったような声で、天馬の名前を呼ぶ。
緑色の目が潤んでいる。肩で大きく息をして、真っ直ぐこちらを見ている。綺麗に染められた金色の髪。あまり日に焼けない白い肌。
楽しそうに笑ってばかりの顔が、今は泣き出しそうに歪んでいる。
一成だ。一成が立っている。
「無事!? 怪我してない!?」
バルコニーの天馬のところまで、一成が走ってくる。こんなのは夢だと思う。幻覚に違いない。だって一成が、今目の前にいるなんて。オレの目の前にいるなんて。
「首なんか怪我してるっぽいけど!? 他は? 何もない!?」
眉を寄せた一成が、何かを確かめるように天馬の体を触る。頭から始まり、首や肩、腕、背中、胸に手のひらが触れていく。
天馬は呆然としたままその手を受け入れていたけれど、はっとして我に返る。息を吐き出す。一成がいる。一成がオレに触れている。
「――だいじょぶっぽい? よかったぁ……」
心から、といった調子でこぼされた言葉。泣き出しそうだった顔にへにゃりと笑顔が浮かんで、天馬の胸が苦しくなる。
しかし、それは悲しみではなかった。混乱と戸惑いと、震えるような愛おしさが胸に詰まったからだ。体中全部が、一成へ向かう感情であふれだす。
天馬はほとんど無意識で、目の前の一成に手を伸ばしていた。
一成がいる。オレの目の前で動いて、生きて、オレに触れている。これは夢だろうか。都合のいい幻だろうか。
震える手をゆっくり伸ばす。一成は一瞬だけ驚いたような顔をしたけれど、何も言わずに天馬の手を受け入れる。
一成の頬に触れた。
やわらかな温みが伝わって、天馬の胸が言いようもなく騒いだ。あたたかい。あの時、棺で触れた冷たさではなく。やわらかく、抱きしめるような温みが手のひらから伝わってくる。
まるで現実みたいだ、と天馬は思う。夢でも幻でもなく、まるで一成が生きているみたいだ。
だけれど、そんなはずがない。だって一成は死んでしまった。世界のどこを探したっていない。それなら、この温みは。包み込んだ頬のやわらかさは。確かに触れる全ては。
混乱と、これが現実でなかったらという恐怖で、天馬の心はぐちゃぐちゃだった。何を言えばいいのかもわからず、ただ唇から言葉がこぼれ落ちる。泣きそうな声で、一成の頬に触れたまま言う。
「どうして――なんで、お前……生きて……生きてるのか?」
一成は死んでしまったのに。もう二度と笑ってくれないのに。オレの名前を呼んではくれないのに。
理性は確かにそう告げるけれど、それなら目の前の全ては。今ここで触れるあたたかな体は。
現実なのか、それとも勝手に作り出した幻覚なのか。混乱と恐慌のままに吐き出された言葉に、一成は答えた。穏やかで、やわらかく、何よりも真摯な声で。
「生きてるよ。テンテン」
そう言うと、一成は笑った。天馬の目の前で、緑色の瞳を細めて。唇をやさしく引き上げて、やわやわとにじむような光をこぼして。
何もかもを包み込むような、やわらかな笑顔だ。真正面からそれを受け取った天馬の膝から力が抜けた。へなへなとその場に崩れ落ちる。
一成は慌てた様子で「テンテン!? どっか具合悪い!?」と言って天馬のそばにしゃがみこんだ。一成を心配させたいわけではないので、天馬は「大丈夫だ」と首を振る。
しかし、一成は心配そうな表情を浮かべている。「無理してない?」と尋ねる目はゆらゆら揺れているけれど、確かに生気が宿っていた。
その事実に、天馬は泣きたい気持ちになる。二度と目を開けないと思っていた。瞼は固く閉ざされたままだと思っていた。
だけれど今目の前の一成は、瞼を開いてオレを見ている。嬉しいと思う。目の前で、確かにここにいてくれる。画面越しではなく笑ってくれた。オレを見つめてくれている。嬉しい。
だけれど、同時に怖くてたまらない。
一成が生きているなんて。生きてるよと言って、オレの名前を呼んでくれるなんて。これは夢だろうか。オレが作りだした幻だろうか。全てはいずれ消えてしまうんじゃないだろうか。
混乱と不安を引きずる天馬の様子に、一成は気づいたのだろう。やわらかな笑みを浮かべると、「テンテン」と名前を呼んだ。視線を向けると、一成がまばゆい光をたたえた瞳で天馬を見つめて言った。
「ね、オレの心臓ちゃんと動いてるよ」
膝立ちになった一成は、自分の左胸を示してそう言う。夢でも幻でもなく、確かにここで心臓は動いているのだ、と一成は告げる。
ちゃんと生きてるよ。嘘でも作り物でもなく、ここでちゃんと心臓を動かしてるよ。声ではなく告げられた言葉が、天馬にやさしく届く。
「テンテン、確かめてよ」
一成は、少しくすぐったそうな表情でそう言った。恥ずかしそうに、照れくさそうに、だけれど真っ直ぐと天馬を見つめて両手を広げる。
ほとんど無意識で、天馬の体が動く。一成の言葉に導かれるようにして、一成の左胸に耳を当てた。
とくとく、と少し速い心臓の音が聞こえる。鼓膜に触れる、命の音。天馬の耳に、確かに響く。心臓が動いている。一成の今を、命を刻んでいる。
耳を澄ますように鼓動を確かめていると、一成が広げていた腕を閉じた。天馬の体をぎゅっと抱きしめる。強く、強く、すがりつくような切実さと、何もかもから守っていこうとするような決意で。
回される腕の強さ。自分とは違う匂いが鼻をくすぐる。心臓の音が耳に響いている。天馬は無意識の内に、一成の背中に腕を回した。
ぎゅっと抱きしめれば、腕いっぱいに一成の存在を感じる。薄い体、そのぬくもり。ふわりと香る匂いに、わずかな汗を感じる。
腕の中のぬくもりが、耳に響く心臓の鼓動が、自分のものではない香りが、体中全てで感じる何もかもが天馬を満たしていく。
一成の存在を、全身で感じている。音から、香りから、触れる温もりから、抱きしめる強さから、余すところなく染み込んで、天馬の心はようやく理解する。
これは現実だ。夢でもなければ、オレの作りだした幻覚でもない。間違いようもなく、今オレの腕の中には一成がいる。
思った天馬は、一成を抱く腕に力を込めた。
体中全てが一成で満たされていく。いつか穿たれた穴に、一成の存在が満ちていく。
永遠に埋まらないはずの欠落。決して満たされない空虚。しかし、今天馬は抱きしめた全てで、自分の中の何もかもが満ちていくのを感じている。
強く、強く、天馬は一成の体を抱きしめる。鼓動を、香りを、視界に揺れる髪の先を、温もりを、腕の中の存在を。
何もかもを体中の全てで感じながら、あふれでる愛おしさごと一成を抱きしめている。