一億光年の恋 30話




 一成の右手を握ったまま部屋を出る。一成は「え」と驚いていたけれど、「離したくない」と言えば素直に従った。
 一成は案外押しに弱いことは知っていたし、天馬の懇願を感じ取ったのだろう。手のひらから伝わる温もりを離したくなかった。
 夏組はどこにいるかと思えば、騒がしい声が一階から聞こえてくる。天馬と一成が階段を下りていくと、玄関ホールに集まっていた夏組がめいめい声を掛ける。
 ただ、二人が手をつないでいることに気づくと、じっと黙り込んでしまった。
 一成は慌てた様子で「やっぱ変に思われてんじゃね?」と言うけれど、天馬は「違うだろ」と答えた。事実、二人が玄関ホールに到着すると、わっと取り囲んだ夏組は口々に言ったのだ。

「オレも、かずと手つなぎたい」
「ポンコツだけ抜けがけしてるし」
「カズさん、オレも、オレも!」
「あの、ボクもカズくんと手をつなぎたいな……!」

 真剣な表情でそれぞれが言うので、天馬は「ほらな」と一成を見る。当の一成は「マジで」とつぶやいて夏組の顔を見つめていた。しかしそれも一瞬で、すぐに我に返ったらしい。

「いやいや、待ってオレの手二本しかないからね!?」

 真面目に返答すれば、「腕組むのでもいいけど」「ハグとかよくない?」やら何やら返ってくる。一成に触れたい、という欲求を前面に押し出してくる夏組に、一成の顔が赤く染まっていった。思わずうめく。

「何かみんなめっちゃ全力だね……?」
「お前が生きてるって確かめたいからな」

 答える間も天馬は握った手を離さないので、夏組からは天馬だけずるい、との声が上がる。天馬も天馬で「誰が離すか」と答えるので、玄関ホールは途端に騒がしくなる。
 ただ、誰もが弾けるような笑顔を浮かべていて、この掛け合いを楽しんでいることは一目瞭然だった。

 そんな風にしばらくやりあっていると、突然扉が開いた。夏組が思わず動きを止めて視線を向けると、入って来たのは井川と別荘の管理人だった。
 井川は完全な涙目で、天馬のもとに駆け寄ってくる。千景から天馬の無事は聞いていたけれど、いざ自分の目で確かめたことで安心したらしい。

「ご無事で本当によかったです……!」

 最終的には泣きながら天馬の無事を喜んだ井川は、落ち着いてから事情を説明してくれた。
 犯人は警察に引き渡したし、その辺りの対処は主に千景が担当した。天馬の名前は出さないよう手配もしたので、騒ぎにはならないはずだ。
 ただ、警察にいくらか事情を説明しなくてはならないので、あとで時間を取る必要があるなど、事務的な話をも含めての説明だった。

「壊れた窓などの修理はこちらで手配しますので」

 ちらり、と小部屋へ視線を向けた井川が言う。業者などの選定から作業日程などは、井川が担当してくれるらしい。
「助かる」と答えた天馬は、そこで改めて管理人へと向き直った。深々頭を下げて謝罪の言葉を伝える。
 不可抗力ではあるかもしれないけれど、天馬がきっかけで洋館に被害が及んだことは事実だ。せめてもの誠意として弁償を申し出たものの、これだけで到底足りるとも思えなかった。
 すると管理人は慌てたように首を振った。

「天馬さんのせいではないですし、謝る必要はありませんよ」
「でも、実際被害を出したのは事実です。部屋もずいぶんめちゃくちゃになってしまいましたし、特にあの時計は……」

 窓の修理は恐らく可能だろうから原状回復はできるはずだ。ただ、天馬が好きだったあの時計は。美しい銀河のような文字盤を持つ、黒檀の時計は。
 過去の一成との電話をつなげてくれたあの時計は、再び美しい姿を取り戻せるだろうか。
 恐る恐る、といった調子で天馬は時計の修理が可能かどうか尋ねた。管理人は、少しだけ考えたあと首を振った。
 時計自体は直せるかもしれないけれど、装飾的な文字盤は職人の手が必要だ。しかし、修理のできる職人はもういない。元の姿を取り戻すことは難しいだろう。
 申し訳ない、と天馬はもう一度頭を下げる。
 長い間、大切にされてきた時計だ。今日までの日々、時間を刻んで過ごしてきた。その時計は、もう動くことがない。破壊されてしまった。
 しかし、管理人は天馬の言葉に穏やかに答えた。悲しそうではあったけれど、どこかに凛とした響きを潜ませて言う。

「物はいつか壊れるものですから、きっと今日がその日だったんでしょう。時計としては充分役目を果たしましたし、時計を気に入ってくれた天馬さんを守れたなら本望に違いありません」

 斧の突き刺さった時計から、管理人はおおむね状況を正しく理解したらしい。
 斧で部屋に侵入したにも関わらず、天馬が斧で襲われていないことと、時計から抜くことができないという事実から推察したのだろう。
 天馬は管理人の言葉に「でも」と言葉を重ねる。

「価値のあるものだったんじゃないんですか」
「いえいえ。確かに古いものではありましたが、そこまで高価なものではありません。ただ、先々代はあの時計の言い伝えを気に入ってあそこに飾っていたんですよ」

 小さく笑った管理人は、穏やかに答える。言い伝えに興味があったからこそ置いてあったけれど、そこまで高価なものではなかったので気に病む必要はないのだと。その言葉に反応したのは椋だった。

「亡くなった人と話ができるってお話ですね」

 紅潮した頬で告げる椋の言葉に、管理人は少しだけ意外そうな顔をした。椋がこの洋館を訪れるのは今日が初めてのはずなのに、どうしてその話を知っているのかと思ったからだろう。
 一成が死んだ過去で、管理人の奥さんと仲良くなって話を聞いていたなんて荒唐無稽な事実、思い至るわけがない。
 もっとも、その点は大した疑問ではなかったのだろう。
 天馬から話を聞いた可能性もあるので、「そうですね」とゆるやかにうなずいた。ただ、特に信じているわけではないようで「ただの言い伝えですよ」と言う。
 本気で信じるような話でないことは、夏組もわかっている。だけれど、夏組はその言い伝えが事実だと知っている。
 死んでしまった一成と電話がつながった。一成の命を助けたくて、未来からできることをしようとした。死んでしまう未来をどうにか回避しようとして、今ここには一成が生きている。
 有り得るはずのない言い伝えは確かに起こって、夏組に奇跡みたいな時間をもたらしたのだ。
 管理人に伝えたところで、信じてもらえるはずがないことくらいは理解していた。これは夏組6人だけの秘密だ。
 だけれど、確かにあの時計には不思議な力が宿っていた。どんな仕組みなのかはまるでわからないけれど、言い伝えが事実だったことは確かなのだ。
 管理人は夏組の密やかな気持ちを当然知ることはない。ただ、あの時計に関しての思い入れは察したのかもしれない。何かを思い出す素振りで話を続けた。

「それに、正確に言うともっと範囲の狭い言い伝えなんですよ。なのであまり知る人はいないんですが――まあ、恋人同士には流行ったかもしれませんね」

 この洋館の所蔵品の維持・管理をしているだけあって、それぞれにまつわるエピソードはきちんと把握しているのだろう。管理人の奥さんが語っていた内容よりも、実際はもう少し詳しく言い伝えがあるらしい。
 長い時間を刻んだあの時計と共に、連綿と語られてきた内容。管理人はゆっくり口を開く。

「あの時計に伝わっているのは、『思いの通じ合った二人なら、亡くなる前の時間につながって話ができる』という言い伝えなんですよ」

 柔和な笑みを浮かべた管理人が、落ち着いた口調で言う。
 あの時計は「星合の時計」と呼ばれていた。ある一定の条件がそろうと過去に時間がつながり、亡くなって星になるはずの恋人と話ができるという言い伝えがあるのだ、と。

「一方だけが思っていても駄目で、両方が同じように思い合っていないといけないんです。あまりにも限定的だから、『亡くなった人と話ができる』に変化したんでしょう」

 管理人は物腰やわらかく言うと、「それでは」と雰囲気を切り替える。言い伝えの話はそこで終わりなのだろう。
 ひとまずはみなさん、うちのほうへおいでください、と離れへ来るよう促す。井川もうなずき、管理人ともども洋館を出ていった。夏組6人もその後を追えばいいとわかっていた。

 しかし、最後に告げられた管理人の言葉に全員が固まっていた。
 時計の言い伝えが事実だったと、夏組は知っている。だって本当に、過去の一成と電話がつながった。死んでしまったはずの一成と再び言葉を交わすことができた。
 他の誰が何を言ったとしても、あの時計の言い伝えが事実だと、何より夏組が理解している。
 一成以外の夏組が思い出しているのは、電話のつながる条件の検証を行った時のことだ。時間や場所に加えて判明した一つの条件。天馬のスマートフォンでしか一成につながることはなかった。
 どうしてなのかはわからなくて、夏組リーダーだからだろうか、なんて話していた。
 しかし、管理人がたった今告げた言い伝えが事実であるなら。他の誰かの電話ではだめだった。天馬の電話しかだめだった。その理由は。
 何とも言えない沈黙が流れていた。その理由を、誰より敏感に理解していたのだろう。一成が、そろりと一歩踏み出す。
 夏組の輪から外れて距離を取ろうとするけれど、天馬が許すはずがない。手を離していなくてよかった、と思いながら強く握ってその場にとどめる。ゆっくり口を開いた。

「一成」

 真っ直ぐと、怖いくらいの真剣さで見つめて言えば、一成は笑顔で答えた。

「えーと、なにかな~?」

 いつもの軽い笑みを浮かべていて、何かを誤魔化そうとしていることだけは見て取れた。天馬はぐい、と手を引いて自分のほうへ一成を引き寄せる。真正面から向き合う形になる。
 一成の耳が赤い。そのあざやかさが、天馬の胸に落ちていく。そんな風にはっとするほどの色彩を宿らせて。何もかもを色づけていくのは目の前のこいつだけだと、天馬の心はどうしようもなく騒ぐ。ほとんど衝動のまま、天馬は口を開く。

「いいか、一成。何度だって言ってやる。オレはお前が好きだ」

 特別なのは、ずっとずっと一人だけだ。未来までずっと隣にいてほしい。オレの近くで、一番近くで笑ってほしい。そんな風に思うのはお前だけだ。

 心を取り出す切実さで告げると、やっぱり一成は困ったような表情を浮かべる。ついさっき、二階で思いを告げた時もそうだった。
 一成はきっと、夏組としての好意しか持っていないから戸惑っているのだと思っていた。だけれど、もしかしたら違うのかもしれないと天馬は思う。
 過去の一成と電話がつながった。馬鹿みたいな話だとわかっている。だけれど、馬鹿げた話が現実になったのだと知っている。
 それなら、「思いの通じ合った二人」が事実なのだという可能性に賭けたいのだ。
 同じ気持ちを持っていてくれると。一成も同じ思いを持っていてくれるのだと。自分だけの思いではないのだと。
 美しい目を見つめて、天馬は口を開く。心臓の音がうるさい。とても落ち着いていられない。体中全部が心臓になったみたいだ。震える声で、いっそ泣き出しそうに顔を歪めて、天馬は言う。

「――オレは、期待していいのか」

 時計の言い伝えは本当だった。過去の一成と言葉を交わした。奇跡みたいな時間を過ごした。
 それなら、両方が同じように思い合っていなければ話はできないと、その言い伝えも本当だと思いたいのだ。
 懇願するような調子で放たれた言葉に、一成はやはり困ったように逡巡している。それがどんな意味を持つのか天馬にはしかとわからない。ただ、素直に答えられない理由があることは察した。
 天馬は、一成の左手を取った。ベッドに腰かけて思いを告げた時と同じように両手を握り、熱のこもったまなざしで告げる。

「言いたくないなら言わなくてもいい。だけど、頼む。嘘だけは吐くな。誤魔化すな。お前の本音を教えてくれ」

 すがりつくような響きで言えば、一成が目をまたたかせた。それから浮かんだのは、困ったというより泣き出しそうな表情だ。
 泣かせたくない。困らせたくない。だけれど、どうかこれだけは。その気持ちを、一成の心を、どうか教えてほしい。
 沈黙が辺りを包む。一成は、恐らく何かを考えている。小さなことによく気づいて、広い視野で物事を見られるのが一成だと知っている。
 だから今も、その細やかな心であらゆることを考えて、どんな言葉を返そうか取捨選択をしているはずだ。誰かを傷つけないように、最善の選択ができるように。
 今の天馬にはそれをただ見守っていることしかできない、と思う。しかし、突然声が響いた。

「一成」

 凛とした声は幸のものだ。一成がびくり、と反応して視線を向ければ、声と同じように強いまなざしをしていた。心に宿した炎を掲げるような視線が、声が、真っ直ぐと一成へ向かっている。

「かず」

 続いたのは三角だ。丁寧に一成の心を拾い上げる声で、ふわりと名前を紡ぐ。一成はただそれを聞いている。何もかもを受け止めて、大丈夫だと何の心配もないのだと、告げるような声を。

「カズくん」

 そっと言ったのは椋だった。穏やかでありながら、確かな意志の宿る声。しなやかに、落ち着いて、それでいて力強い。一成の背中をそっと押すような、そんな声をしていた。

「カズさん」

 最後に名前を呼んだのは、九門だった。周囲に光を放つ強さと抱きしめるやわらかさを声にして、一成を呼ぶ。明るい笑顔で、前に進む決意を分かち合おうとするみたいに。
 夏組それぞれが呼んだ名前。言葉はなかった。だけれど、それでも充分だった。
 だってその声は、何よりも伝えている。一成の逡巡も憂いも、全てを知ってそれでも平気だと。一成がどんなことを思っても、どんな選択をしても、自分たちはここにいるのだと、味方だと告げるような。
 耳慣れたその名前を、確かなエールに変えて夏組は声にした。
 天馬にもわかったのだ。他でもない一成が受け取らないはずがなかった。
 一成は、深く息を吐き出した。ぎゅっと目を閉じる。天馬はただ、その様子を見つめている。
 心臓がせわしなく暴れ回っていた。そわそわして落ち着かない。だけれど、世界が終わっていくような気持ちじゃない。
 何かが始まっていくような、思わず走り出したくなるような。舞台に上がる前にも似た緊張感で、天馬は一成の答えを待っている。